
『We Live in Time この時を生きて』
病と闘う女性の意志と家族愛
料理人としての夢と命を懸けた挑戦
自己の生き方を強く主張する主人公 |
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今回紹介する『We Live in Time この時を生きて』(2024年/監督、ジョン・クローリー、脚本、ニック・ペイン、製作、英国・フランス、168分)は、観客を十分に楽しませ、しかも内容的にも充実した作品である。英国とフランスの共同製作で、舞台は英国。英語圏作品といっても、米国映画よりしっとりした情感と落ち着きが、見る者の身体にすんなりと入る見やすい作品だが、内容的には「人の生死」を扱い、死を迎えるまで、いかに生きるかを真正面から見つめる作品だ。
美しい田園風景が広がる英国の丘陵地帯、1人の女性ランナーが朝のジョギング中。早朝の空気を胸いっぱい吸い込み走る。彼女はアルムート(フローレンス・ピュー)である。地の人らしく、慣れた手付きで路傍の花を摘み帰宅する。この田舎の農園が彼女の家で、規模の広さ、緑の濃さに目を奪われる。
家に戻り、庭にある鶏舎から卵を取り出し、朝食のオムレツを作る。取り立ての卵は平らなところでぶつけ割るやり方。彼女、どうやら食のプロであることがうかがい知れる。
彼女は、溶いた卵を容器ごと持ち、ベッドに横になったままの夫トビアス(アンドリュー・ガーフィールド、長身の美男子、動の彼女に対し、控えめな存在)に味見をさせる。仲の良い夫婦だ。彼女が用を足すとき、脇から大きなお腹が見え、夫は新しい命を授かることに満足気だ。
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公園の2人 アルムート(右)トビアス(左)
(C)2024 STUDIOCANAL SAS - CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION ※以下同様
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交通事故のトビアス
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娘エラと
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相思相愛の2人
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妊娠検査
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自宅の台所で
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アルムートの検診
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入浴中、ビスケットを口にする2人
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コンクールの準備中のアルムート
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アルムートとトビアスの出会いは漫画的だ。もちろん、このアイデアは脚本家ニック・ペインの創作であろう。
ホテルの部屋に筆記具がないことに気付き、ペンを買いに街へ出たトビアスは、高速道路を渡る時、車にハネられ即入院、気付いた彼の目の前に若い女性(アルムート)が座っている。彼女は、自ら「私があなたを轢(ひ)いたの」と話す。
本来なら、警察に居るはずの彼女が、ギブスで固められたトビアスの前に居ること自体不思議だ。作中、笑えるギャグが何度か彼女の口から発せられるが、話の良さに加えてアルム―ト役の彼女の当意即妙な応答が心地よく、作劇上効果的だ。交通事故の被害者と加害者が意気投合し結婚する。
アルムートは大きなレストランのシェフで、厨房を任されている。若い女性の料理人ジェイドは、彼女の前で直立不動。シェフから「そんなに固くならなくてもいいの」とからかわれる。
ここで、レストラン内の彼女の地位が分かる。一方、トビアスは大手シリアル会社のサラリーマンである。彼はアルムートと出会う前に離婚しており、彼女と結婚後、娘エラが生れる。
アルムートは妊娠しており、今日は夫と共に定期健診に行く。後で分かることだが、彼女はステージ3の子宮がんの身である。
女医はまず、がんの治療をし、その後出産を提案する。さらに仕事を休むことも勧める。仕事に対する意欲が非常に強い彼女は、難色を示す。
案の定、大きな問題が彼女の前に立ちはだかる。彼女は、世界的に知られる料理コンクール「ポール・ボキューズ・コンクール」に出て腕試しをしたく、うずうずしている。夫には無断でコンクールへの参加を決める一方、治療も開始する。
抗がん剤の場合、髪の毛が抜け落ちるが、彼女は、どうせ坊主頭になることだしと、夫がバリカンで丸刈り。彼女の意志の強さを見せる一幕だ。
2人は結婚式と親族の集いを予定通り執り行おうとするが、「ポール・ボキューズ・コンクール」の日と欧州予選日が重なり、苦渋の決断をする。結婚式は断念し、彼女はコンクール参加を選ぶ。
アルムートのお腹は、どんどん大きくなり、悪阻(つわり)もひどくなる。そして、出産間近は大騒動となるが、親族会では何事もなく無事に終わる。
その後アルムートは陣痛に見舞われ、病院に行く途中車を止め、近所のコンビニのトイレに飛び込み、長い間吐き続ける。あわてたトビアスは遠慮勝ちに「入るよ」と言うと、「断れないよね」と彼女は返す。このあけすけなやり取り、出産という自然現象だから当然だ。
そして、スマホで医者の指示を受けながら、夫が赤ん坊を取りあげることになり、無事出産。娘エラの誕生である。
1964年以降、ミシュランガイドで三ツ星レストランの筆頭格であったフランスの世界的料理人ポール・ボキューズ(1926−2018、91歳)の店「ポール・ボキューズ」は、彼の逝去後、2020年に二つ星に降下する。
この店はリヨン郊外の彼のレストランで、晩年の彼は、料理はせず、もっぱら客と会話を楽しみ、同時にフランス料理の世界的普及を推し進める料理人としても有名だ。
その彼が、1987年に「ポール・ボキューズ・コンクール」を創設した。
面白い小道具が作中活躍する。新婚当時2人はアツアツで、『釣りバカ』の浜ちゃんではないが、"合体"に励む。ある時、2人で入浴していると、それぞれがビスケットを浴槽の中でつまむ。
このビスケット、他でも活躍する。検診の折、女医がビスケットを振る舞う。ラストの「ポール・ボキューズ・コンクール」では、客席でアルムートを応援するトビアスとエラの手にビスケットが握られている。これが意味するところは、筆者の解釈だが、ビスケットは「幸福を呼び込む」ことの象徴とも考えられる。面白い発想だ。
無理を重ねての調理場の仕事、さらに出場する「ポール・ボキューズ・コンクール」へ向けての準備など、アルムートは心身とも限界の状態である。彼女はエラの保育園の迎えも担当し、多忙を極める。
保育園前でトビアスとエラは雨の中、アルムートの迎えを待つが彼女は現れない。家に帰り、日ごろは妻を立てるおとなしいトビアスが爆発。「料理より子供の心配をしろ」と珍しく語気を強めの口論が炸裂する。
彼女は、ここで自己の生き方を強く主張する。「自分は何かを残して死にたい」、「ただの亡くなったままの母で終わりたくない」、さらに「忘れられたくない」と思いのたけを伝える。彼女はあくまでも前向きで、たとえ余命が残りわずかでも、この姿勢を崩さない。見上げた気概だ。
この口論こそ、本作のキモである。彼女の強烈な発言にトビアスも理解を示し、納得いくまで料理に励むことを認める。ここに欧米の文化として根強い「話し合い」の精神がくっきり浮かび上がる。わが国では、なかなかこのような状況は見られない。
待望の「ポール・ボキューズ・コンクール」の日が来る。若いジェイドも師匠を見習い、坊主頭に。彼女は「何があっても貴女について行きます」と心酔する師へ、エールを送る。この場面は泣ける。このような光景、米国映画(含英語圏内作品)では時折見られる。本作もその一例である。
コンクールでは各国2名の料理人が出場し、持ち前の腕を競う。満員の場内上段の隅にトビアスがエラを抱え、遠くからアルムートに声援を送る。彼らの手にはたびたび登場するビスケットが握られている。作中、この菓子についての説明は省かれているが。
本作、重要なことが示唆されている。死についての考え方である。死を前にすると、打ちひしがれ、悲しむのが常である。しかし、本作では、生きる方に重きを置き、いかに生きるかを説いている。「人は当然死ぬが、生きている間は納得して生きたい」とし、この積極性が本作のメッセージである。
気の利いたユーモア、生きるための強い意志、そして、愛のある家族、どれも納得して生きる必須条件だ。傑作である。
(文中敬称略)
《了》
6月6日TOHOシネマズ日比谷ほか全国ロードショー
映像新聞2025年5月19日号より転載
中川洋吉・映画評論家
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