
『長崎―閃光の影で―』
原爆投下により平和な日常が一瞬に崩壊
看護女学生の視点で描く戦争
当時の活動を記録した手記を基に |
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長崎での原子爆弾(以下、原爆)投下を背景とする作品『長崎―閃光の影で―』(2025年/監督:松本准平、脚本:松本准平、保木本佳子、プロデュース:鍋島壽夫、撮影:灰原隆裕、109分)が近々公開の運びとなる。昨今の日本映画で社会性の強い作品群、あるいはドキュメンタリーには、現代を撃つ「俺はこう言いたい」と主張する作品が光る。本作もその一群の1本である。
米軍による日本本土の原爆投下で、広島は14万人、長崎は7万人の被害者を出している。米軍は、原爆で戦争を止めさせたとの論陣を張り、この2発の投下を正当化して80年を経る。これは一面の論理であり、加害者の弁であろう。
同時に、日本軍はなぜ1週間前に降伏しなかったかを責められるべきである。もう少し早く手を打てば、少なくとも長崎の被爆は避けられたはずだ。戦争とは「こんなもの」と訳知り顔に語ることは論外だ。その戦争の本質を、本作は衝(つ)いている。
長崎原爆投下は、量的被害が倍の広島に比べ、語られることは少ない感がある。数字の大きさではなく、失われた命に対する尊厳の問題こそ触れるべきである、作り手は人道的立場から、二度とこのような犯罪を起してはいけないことを主張している。
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看護学校の3人の女学生
(C)2025「長崎―閃光の影で―」製作委員会 ※以下同様
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洗濯する看護女学生
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教室での看護女学生
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原爆投下の閃光
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修道女と母を失った赤子
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浦上天主堂での最後の告解
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疲れ果てた看護女学生
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焼け跡の片付け
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医師の診断
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息絶える患者
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看護女学生 スミ
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看護女学生 アツ子
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看護女学生 ミサヲ
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本作は、日本赤十字の看護師たちにより、被爆後の救援活動を記録した手記『閃光の影で−原爆被爆者救護 赤十字看護婦の手記−』(1980年)を基に脚本が執筆される。原爆投下当日から1カ月間にわたる、看護学生たちの救護活動が、彼女たちの視点を通じて克明に記されている。
家族、友人、恋人との日常を大切にしていた彼女たちの「青春」が一瞬で失われながらも、未来を諦めなかった姿は、戦後の現代に生きる私たちに深い問いかけを投げかける。
1945年8月9日午前11時2分、原爆が長崎に投下される(実際には、米軍の原爆投下は北九州の小倉と決まっていたとされ、天候不順のため進路を変更した説がある)。
17歳の看護学生である田中スミ(菊池日菜子)、大野アツ子(小野花梨)、岩永ミサヲ(川床明日香)の3人は、長崎空襲による休校を機に、大阪での勉学を切り上げ帰郷し、家族や友人との平穏な時間を送る。当時、九州は安全と考えられていた時代風景が浮かび上がる。
しかし、原爆投下により、平和な日常が一瞬にして崩れ去る。町は廃墟と化し、看護学生の勉学に勤しむ23人の少女たちも、未熟ながら戦争の真っただ中に放り込まれ、自分たちの安全も怪しくなる。彼女たちは負傷者の救護に奔走する。救える命よりも多くの命を葬らねばならない過酷な現実がある。
8月9日の朝は、スミにとって忘れられない朝となる。出かける途中に幼なじみの岸本勝(以下、勝)が彼女を待っている。多くの少年少女が軍事工場で働かねばならぬご時世である。早く職場へ行かねばならぬ勝が、なかなか行こうとしない。
そして彼はついに口を開き「スミの写真ば欲しか」と、赤紙(軍隊の召集令状)を見せる。彼は戦場へ行く身となり、好きなスミの写真を身につけたいのである。スミも勝が好きで、彼の出征に動揺する。二度と会えない恐れが2人の頭をよぎる。スミは「次の機会に写真を渡す」と約束する。
一方、アツ子は、日本赤十字社長崎支部に勤務、ミサヲは、浦上天主堂(原子爆弾投下までは現存)で、父(萩原聖人)と共に告解(キリスト教の信者が司祭に自らの罪を告白し、神の許しを求める儀式)を済ませ、家路につく。
スミは島原の愛野にある祖母の家へ向かうバスの中で、強烈な閃光を目撃する。バスの乗客はパニック状態に落ちる。スミはとっさに看護師として乗客の怪我の手当てをする。
長崎市内は壊滅的な被害を受ける。日本赤十字長崎支部は崩壊し、アツ子は足を負傷するが、婦長の川西トキ子(水崎綾女)の指揮のもと、救護にあたる。浦上天主堂や町も破壊され、ミサヲは瓦礫(がれき)の中から父親を救出する。
被爆者や負傷者は、小学校の床の上に集められるが、昼間は白い肌の身体も、夜になると体力が衰え、黒こげのようになり死去する。まさに地獄図である。死に行く人々は、口々に「水を、水を」とうめくが、医療上、水を口に含めば死ぬとされ、水も与えられず絶命する。これらの場面、焼け跡の長崎市、負傷者を収容する学校と、とてもこの世のものとは思えぬ様である。
この焼け跡の惨状、見事な再現ぶりで、被害の大きさが見るものを圧倒する。美術担当者の努力により、当時の多くの焼け跡と人々がよみがえったようだ。この美術セットで被爆のすごさが強く印象付けられる。見事な仕事である。
救護活動に取り組む彼女たちは、再会を果たす。3人は絶え間ない死体の埋葬に疲れ果てる。そこへ1人の少年が、背中に息絶えた弟をおぶり焼場に来る。そしてその弟を埋葬、兄は力なく、焼け跡の中に姿を消す。心痛い場面だ。
さらに、3人で焼け跡から赤子を取り上げる。ガラスの破片が目に入り、母親は死亡し、残された子は修道院に預けられる。この赤子の将来を思うと胸が詰まる。不幸の連鎖だ。
また、焼け跡で1人の女性が少女たちに救護を懇願するが、周囲の大人が「朝鮮人にやる薬はない」と冷たく見放す。日本人の朝鮮人差別に怒りと悲しみの感情が湧く。
他に疲れ切った医者と若い兵隊の言い合い、この期に及んでも、大日本帝国軍人は、戦争を起していながら、一般人に対する上から目線。人間の嫌らしい一面がアリアリだ。そして、戦前から続く日本人の朝鮮人に対する差別と蔑視などの加害も忘れてはいけない。
3人娘は久しぶりに再会するが、醜い現実に接し、それぞれ、人が次々と亡くなる様子を目の当たりにし、それに連日の救護活動で憔悴(しょうすい)して、発言もトゲトゲしくなる。
この状況に対し、1人は「もうお祈りしても何の効果もなか」と絶望的な言葉を口にする。もう1人は、「どんな悪いことをしても、神はお許しになる」と信者らしい発言。
スミの恋人、勝は敗戦で戦地から長崎に戻る。被爆したこの町には放射能があふれ、そのため彼は放射能の影響を受けてしまう。彼女をもっと安全な所へ連れて行こうとするが、彼は原爆症で立ち上がれない。
「アンタは恋人と逃げようとした」とスミを攻めるアツ子、皆、疲れ切り他人に対する思いやりを欠き始める。
そして、最後は「もう1週間早く戦争が終われば皆生きとった」と悲しみと悔しさを交えた発言が飛び出し、言い争いは幕を下ろす。
原爆の惨禍と人の命のはかなさ、その奥には戦争を起こした軍人たちへの批判が底流にある。これだけの重いテーマを諄々(じゅんじゅん)と説く、松本准平監督の発言には説得力があり、監督自身の力量も感じさせられる。画面全体に流れる戦争とその後の緊張感は衰えず、作品のメイントーンとなっている。これらの場面は本作の見ドコロだ。
筆者は、本作を本年度のベスト5に推す。そして皆で、今一度戦争について考えたい。
(文中敬称略)
《了》
8月1日よりTOHOシネマズ 日比谷ほか 全国公開
映像新聞2025年7月21日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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