このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



『アイム・スティル・ヒア』
政治混乱期の中を生きる一家族の実話
軍事政権下のブラジルが舞台
夫を軍部に連れ去られた妻の闘い

 1973年に南米チリでは、ピノチェト将軍によるクーデターが起き、民主政権が軍部により転覆される。チリは一瞬にして軍事政権に支配され、多くの人々が虐殺される。その軍事行動に呼応するように、アルゼンチンでも恐怖の軍事政権が誕生し、多くの人々を苦しめる。ピノチェト政権の時、他の南米諸国はどのような状態であったか、調べ始めると、南米一の大国ブラジルでは米国の介入を受け入れ、既に軍事政権下であることに突き当たる。それが1964年から85年までの時期である。

家族写真
(C)2024 VIDEOFILMES / RT FEATURES / GLOBOPLAY / CONSPIRACAO / MACT PRODUCTIONS / ARTE FRANCE CINEMA ※以下同様

エウニセ

ルーベンス

パイヴァ一家

警察に連行されるエウニセ

エウニセ

一家での外食

ルーベンスとエウニセ


ブラジル軍政

 ブラジルの場合は、民主政権時代、そして軍事政権時代という、きちんとしたくくりがなく、民主政権下でも汚職や腐敗が蔓延し、格差の拡大をもたらせる。
例えば、1964年のブラジルの軍政は、米国の支援を受けるカステロ・ブランコ将軍が、クーデターにより親米反共政権と外国資本の導入を柱にした工業化政策を推進させる。この時期は、「ブラジルの奇跡」ともてはやされる、高度経済成長期である。
その後のオイルショックで経済の悪化を招き、何人かの軍人が政権の舵取りをするが、経済問題が好転せず、さらに、軍人、政治家の汚職や腐敗は相変わらず続く。このような不正は、保革両陣営問わず横行する。
今回紹介する作品は、この混乱の最中(さなか)を生きる悲劇の一家族がメインの『アイム・スティル・ヒア(I'm Still Here)』(2024年/監督:ウォルター・サレス、脚本:ムリロ・ハウザー、原作:マルセロ・ルーベンス・パイヴァ、撮影:アドリアン・テイジド、製作:ブラジル・フランス、ポルトガル語、137分)である。実話を基にした本作は、第97回アカデミー賞(2025年)で国際長編映画賞を受賞した。



作り手の意図

 時代は1970年代、軍事政権下のブラジル。主人公のエウニセ・パイヴァ(フェルナンダ・トーレス)は、5人の子持ちの主婦である。夫ルーベンス・バイヴァはブラジルの民主勢力の代表「ブラジル労働党(PTB)」からサンパウロ州選出の連邦下院議員に当選する。
一家は市内に豪壮な家を構え、屋敷は進歩的なインテリのたまりの様相を呈し、いつも客人が出入りしている。主人のルーベンスは、学識のある温厚な人物、この彼のもとに多くの知識人が集う。
この幸せを絵に描いた一家に一撃を加えるのが軍部のクーデターで、軍事独裁体制を敷くのがカステロ・ブランコ将軍であり、民選政権が崩壊する。クーデターの翌月、軍部はルーベンスの議員資格を剥奪。同時に、軍部は議会権限を制限し、大統領に広範な権限を付与。政治犯の権利剥奪などを合法化する。
議員資格を奪われるルーベンスは、本業である建設技師の仕事に従事し、何とか生活を維持。将来の危険を見越して長女ヴェロニカ(当時14歳)を英国・ロンドンへ留学させる。
1971年、軍部は彼を自宅から連行、消息不明となる。このルーベンス連行が、一家の運命を大きく変える。家には4人の子供と母親のエウニセが残る。彼女は夫の消息を訪ね歩くことから始める。政府関係、友人たちに聞くが、「軍が連行」の推測の域を出ない。
当然ながら、軍は、何を聞いても知らぬ存ぜぬの一点張り。一個人は軍部の組織に対して、全く無力な存在だ。 
  


エウニセの行動

 万策尽きた彼女に、軍部は更に追い打ちをかける。彼女と次女のエリアナは軍部に連行され、取り調べられる。エウニセは12日間、次女は1日収監された後に釈放。
さらに軍部の嫌がらせが続く。家の前には四六時中私服警察の車が張り付き、一家の動静を探る。全権力を手中にする軍部はあらゆる手段で一家を翻弄(ほんろう)する。



犯罪の見逃し

 
本作の根底には、「なぜ、軍政犯罪は裁かれなかったのか」という問いが流れている。アルゼンチンやチリと異なり、ブラジルでは軍事政権関係者が正式に裁かれることはない。近年、拷問執行の軍人が裁判にかけられた記事を目にする機会はあるが、大犯罪に対する小さな手打ちのようなものだ。
隣国、韓国の軍事独裁者で、大量虐殺、公金横領の罪に問われる全斗換(チョン・ドゥファン)元大統領が、死刑判決を受けながら、自宅の布団の上で死んだ例もある、このように、みすみす犯罪を見逃す体制のバックに、極右盤石保守の支えがあったと考えられる。



孤立無援の彼女

 
4人の子供を抱え、孤立無援のエウニセは、銀行口座を凍結され、最後に手元の外貨を両替し、リオデジャネイロの豪邸を売り、サンパウロに転居する。
子供たちに「これからは、1人1部屋は無理」と告げる。生活の大幅な縮小である。



母親の信念

 
最愛の夫を軍部に連れ去られたエウニセは沈黙することなく、夫の名、ルーベンスを呼び続ける。国家に夫を奪われたのは家族、発言する声、そして、家族の未来も奪われる。
それでも彼女は立ち上がり、記憶と真実を守り抜く。たった1人の声が歴史を動かすまで。



闘い続ける彼女

 
連行事件から、エウニセは大学に入り直し弁護士となる。ここまでやり切る姿を見れば、彼女はもう、ただの人とは呼べない。彼女の意志の強さに敬服する。
彼女は弁護士として、先住民族パタソの権利擁護を主張する意見記事を発表、3年後には政府の開発計画に対する調査法で、先住民の土地権を擁護。彼女の行動は止まらない。



遅すぎる認定

 
1993年「ブラジル政府特別委員会」がルーベンスを「政治的失踪者」として正式認定。22年後、遅い犯罪認定をやっと政府に認めさせた、遅すぎる認定(最初から何人かの面は割れていたに違いない)に彼女は涙して喜ぶ。
1996年、政府よりルーベンスの死亡証明書が正式に発行される。事件から25年越しに死が公認される。この件で2004年ブラジル政府(ルーラ政権、労働党・民主政権)は、初めてルーベンス遺族への公式謝罪を表明する。



息子の証言

 
2015年、ルーベンス、エウニセ夫妻の4人目の子供(男子)、マルセロ・ルーベンス・パイヴァ(65歳)が両親についての回想録を出版、これが本作の原作となる。彼は映画撮影時にはアドバイザーとして協力する。
元々、サレス監督は、パイヴァ家とは友人同士で、今回のシナリオ連係プレーへとつながる。



忘れぬこと、語り継ぐこと

 
本作は「夫を奪われた妻と家族」への視点に徹する記憶の塊とも言える。重要なのは「記憶の継承」であり、忘れぬこと、声を挙げることである。人間の生き方を問うている、見るべき作品である。




(文中敬称略)

《了》

8月8日新宿武蔵野館ほか全国ロードショー

映像新聞2025年8月18日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家