
『佐藤忠男、映画の旅』
映画を愛し続けた稀有な存在
教え子・寺崎みずほ監督による師の軌跡
映画史研究、アジア映画普及に功績 |
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映画批評界の第一人者、佐藤忠男が2022年に没した。彼は1930年、新潟市の船具店で9人兄弟の末っ子として生まれる。この彼の生涯を綴る映画作品『佐藤忠男、映画の旅』が公開されている。監督は寺崎みずほ(1985年生まれ、日本映画学校〈現日本映画大学〉卒業)。彼女は、現役時代の佐藤忠男の授業を受け、現在は映像ドキュメンタリー作家として活躍している。
本作は、佐藤忠男の生涯を追い、「若き日の彼」、「彼の仕事」、「久子夫人」、「著作」そして「アジア映画」について、それぞれ専門の映画人が証言している。
筆者は、映画批評の世界の先輩にあたる佐藤忠男の人となりにも触れたい。もちろん、彼は映画批評、映画史研究者として先生であり、いつも何かと教えを乞う、仰ぎ見る大先生でもあった。彼のことをひと言で言うなら、人品骨柄卑(いや)しからぬ紳士であり、映画史研究の第一人者であることは言を待たない。
佐藤忠男はアジア映画に詳しく、筆者は1980年代、90年代の韓国映画に多大な興味を持ち、彼に質問ばかり発して、ご迷惑を掛けたことを想い起こす。
例えば、今は無き岩波ホールの忘年会では、前もって数々の質問を準備し、それを彼にぶつけたものだ。仕舞いに先生は面倒くさがって、席を変え消えてしまうことが2,3回あった。
また、韓国映画の概要について、韓国の専門家の紹介を厚かましくお願いした。その相手の方は大変な日本通で、日本文で10nにも及ぶ返事を頂戴し、恐縮した。
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佐藤忠男
(C)GROUP GENNDAI FILMS CO., LTD. ※以下同様
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パーティー場の佐藤忠男
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著書「日本映画史」
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執筆中
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若い時の写真
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自作著書
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アジアの楽器
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友人達との団欒
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講義中
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映画史研究
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彼は1930年、新潟市の船具店に9人兄弟の末っ子として生まれる。ごくごく普通の家庭の出身で、時は、1937年に開戦する日中戦争前である。大家族で、戦時中の生活の困難さと家庭の事情とで中学受験をせず、海軍飛行予科練生となるが、翌1945年に終戦となり、帰郷し町工場に勤める。
現在で言うところの高卒であり、エリートではない。大卒と比べればワンランク下とされ、社会的通念のもと、彼は「自分は大卒ではないが人生の大学に入った」と筆者は何かで読んだ記憶がある、
内面のコンプレックスが全くないということは考えられないが、彼は同年代の人間に比べ小遣いも多く、好きな本も買えたと自負する。幼い頃から読むことは大好きで、後々それが彼の矜持を形成している。高卒という肩書をバネに大成したとも言えよう。
佐藤忠男は、一見ブスッとして、取っ付き難い印象を与える。話しやすい人間ではない。教え子で監督の寺崎みずほは、インタビューで「無表情で怖い。でも、とてもユニーク」と語るが、言い得て妙とはこのことである。日頃は仏頂面、あまりしゃべらない人柄だが、一端話し始めると熱量がドンドン膨らむタイプである。その中にあるのは、彼が1人で学んだ、映画の宝物が散りばめられている。まさに、研究者肌の人物であることに違いない。同時に、彼は前述のように、大変な読書家で、しこたま知識をため込み、150冊と言われる著書をものにしている。書くことが苦にならない性格の様で、常に何かを書いていたエピソードがある。
映画界を生きる人物は概して酒が好きで、佐藤忠男を知る映画評論家は「彼は斗酒(としゅ)なお辞せずの口で、飲めば飲めるタイプ」と述べている。
故・岡本愛彦(テレビ・映画作家、代表作『私は貝になりたい』)は、佐藤忠男は仕事が趣味、と語っている。生涯、150冊の著作を書き上げた彼、仕事の付き合い以外は酒をたしなまなかった印象を受ける。酒を飲む暇があれば、何か読んだり、書いたりで過ごすことが多い知識人である。
余談だが、80歳過ぎても試写室にこまめに通っていた彼は、時折"こっくりさん"を始める。大先生もやはりわれわれと同じと納得したことを思い出す。もう1つ、映画上映中に原稿の校正をしているのである。誰でもできる芸ではない。
2001年のカンヌ国際映画祭の時である。日本映画学校(当時)の学生10人くらいを引率しカンヌ入り。新設の部門、シネ・フォンダシオン「学生映画部門」に教え子の作品のエントリーのためである。作品名は『トシ君の生まれた日』(吉川光監督/日本映画学校)。カンヌ滞在中レストランの勘定は彼が全部持ったそうだ。
彼自身は、美酒、美食をたしなむ人ではない。アジアフォーカス・福岡映画祭のディレクター時(1991年−2006年)には、彼が身銭を切り、招待監督を接待し、翌朝は眠い目をこすりながら彼らを見送ったハナシがある。
また、『一本刀土俵入り』(1931年/長谷川伸原作、稲垣浩監督、片岡千恵蔵主演)のような情(なさけ)の濃い任侠(にんきょう)ものも好んだ。
佐藤忠男のスタイルは戦時中のひと言「自分は労働者であったが、半人前であり、辛い労働を避け、文学に移ったことに疚(やま)しさを感じる」と率直に内面を吐露している。そして、たとえ世の中では下品とされるものでも面白いものは面白いと述べている。彼の文体はコネクリ回しがなく平易で、ここが彼のシンプルな文体と通じる。
アジア映画に精通する彼は、1995年にその分野の専門家と見られ、当時の日本映画学校長である今村昌平から乞われ、そのポストに就任する(彼の前に、今村昌平は脚本家新藤兼人にも打診するが、彼はシナリオ学校を主宰しており辞退する一幕がある)。
そして、就任中も福岡のアジアフォーカスのディレクターとしてアジア映画作品を探す役割を務める。それまでの中国、韓国以外のイラン、モンゴルやアフリカの知られざる国々の作品を発掘する。これも、彼の大きな功績の1つと数えられる。
彼の一番好きな作品が本作の中で紹介されている。それが、インドのアラヴィンダン監督作品『魔法使いのおじいさん』(1979年)である。
インド南部ケーララ州の学校に「魔法使い」と呼ばれる老人が現われる。お面を売り、不思議な歌を歌って歩く老人を子供たちは待ちわびる。最後に老人は子供たちに次々と魔法をかけ、動物に変えて行く。夢のある、子供の純真さや素朴な暮らしを描くおとぎ話である。佐藤忠男のナイーブな一面である。
この実写フィルムが本作の約4分の1も続く。彼の熱愛振りがよく分かる、遺言のような作品だ。
佐藤忠男は、2022年に胆のうがんで死去。91歳であった。映画を愛し、研究し、そして発掘、紹介を続けた。つくづく思うことは、彼が映画という無限の世界を拡大した稀有(けう)な人物であることを、今一度本作を見て確認させられたことである。
(文中敬称略)
《了》
11月1日から新宿K's cinema にてロードショー
映像新聞2025年11月3日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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