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『海賊のフィアンセ』
女流監督作品が56年越しの日本初上映
母の死を契機に始まる復讐劇
フェミニズム映す艶笑コメディー

 1969年にフランスで公開された「オトコ社会」を痛打する快作『海賊のフィアンセ』が、その56年後となる今年、日本で初公開される。フランスの新しい映画運動「ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)」の始まりは1957年とされるが、その本流より外れる位置に、女流監督ネリー・カプランが立ち、「オトコ社会」に鉄槌(てっつい)を浴びせる本作がやっと日の目を見る。

 
本作のすごさは、世間の一般的常識をひっくり返す点である。ある移民の貧しい母子が、保守的な村社会からのけ者にされる状況が設定される。母親の死をきっかけに主人公マリー(ベルナデット・ラフォン)が、今まで差別してきた村の男性たちに積年の恨みを晴らすことが、作品の大筋だ。
その復讐の手段が、村人相手の売春行為であり、それ自体を反道徳行為とみなす世間一般の反応があり、土足で座敷に上がり込むような女性の大胆さが、1970年代初頭に問題視された。フランスでは、ずっと買春は処罰の対象ではなく、買手責任を問う「売春処罰法」が2016年に成立、日本では買手の法的処罰は未だ成立していない。

ベッドのマリー      
(C)1969Cythere films - Paris    ※以下同様

復讐を決意するマリー

マリー

男たちに囲まれるマリー

小銭で支払う男性

化粧するマリー

小屋を燃やすマリー

パーティー前のマリー


五月革命

 本作の社会的背景として、1968年の「五月革命」の存在は重要である。20世紀のフランス、それも戦後1945年以降のフランスの大事件として、植民地のアルジェリア独立戦争(1954−62年)と、もう1つ「五月革命」がある。発端は学生の反乱が拡大発展し、社会的意識の変革に大いに寄与する副産物を生み出す。
具体的には、従来の権威の失墜、すなわち、教会、共産党の影響力の低下、社会的人間関係(一例が医者対患者、受刑者対看守)が縦位置から横位置への変化、そして女性の権利獲得の意識の向上で、特に女性の大学進学率の増加が挙げられる。
本作のような女性の権利、フェミニズムの発展が、五月革命以降顕著になり、現在に至る。本作の主張は、これらの意識の高まりを象徴している。



大物監督との出会い

 ネリー・カプラン監督は、1931年ブエノスアイレス生まれで、大学まではアルゼンチンで過ごし経済学を学ぶ。しかし、映画への深い関心からパリへと飛び立ち、この辺りから彼女の行動力の強さが垣間見える。
最初はジャーナリストとして活動し、その後のアベル・ガンス監督との出会いで映画監督の道を進む。ガンス監督(1889−1981年)は前世紀生まれでサイレント映画からのフランス映画の超大物監督。代表作に『鉄路の白薔薇』(1923年)がある。同監督はこの大物監督の知遇を得て、その後の映画活動につなげた。



ヌーヴェルヴァーグとの関連

 新しい映画の動き、ヌーヴェルヴァーグは、簡単に言うと1959年、フランソワ・トリュフォー監督やジャン=クロード・ゴダール監督ら若手監督の作品が同派の始まりとされている。代表作は、トリュフォー監督の『大人はわかってくれない』(59年)、ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(60年)が初期の作品として知られる。
この派の即興演出、同時録音、ロケ中心の手法を特徴とし、みずみずしさや生々しさを作品の特色とする。同派は、若手監督による1968年カンヌ国際映画祭粉砕までを一区切りとする。
ヌーヴェルヴァーグ一派とカプラン監督は、『海賊のフィアンセ』の主人公ベルナデット・ラフォンの配偶者が同派の映画監督で、その彼が同派の面々を紹介したとされる。カプラン監督とヌーヴェルヴァーグ派は、当時から交流があり、1つのグループとも言える。 
  


マリー母子と村の面々

 作品の舞台は、フランスの架空の農村「テリエ」。山奥の田園地帯の小さな村である。マリーの母はこの村にやってきたロマ民族で、彼らに対し一段下の階級とする差別が根深い。手に職を持たないシングルマザーは、体を売っていたと想像できる。
この母子は、村の裕福な女性イレーヌの下働きをし、わずかな食事と住居たる森の中の小屋を与えられ極貧生活を送る。女中仕事や、イレーヌの痴呆(ちほう)で病弱な夫の世話を、長い間させられていたとみられる。
主人公マリーの登場がショッキングである。床掃除をするマリーのスカートの奥の白い下着が丸見えの後ろ姿を、痴呆老人が食い入るように見入る。ここから、その後の人間関係がおぼろげながら見える。その彼女を男性たちは無料の性のはけ口としていたのであろう。
本作は、その屈辱的な環境に身を置く、女性2人を取り巻く資本主義や家父長制度のジェンダー観で統一されている。




母親の死

 物語は、母親のひき逃げ死から始まる。ある晩、母親はひき逃げされ、村の5、6人の男性たちが遺体を小屋で運び込む。もっともらしく、神の名を絶えず口にする神父も、何事かと遅れて登場し話が始まる。
そこへ駆けつけるのが娘のマリーである。面長で長身、顔に意志が表われる個性の強さがみなぎる彼女の登場で、強烈な復讐劇が始まる。男どもは「葬式はどうするか」と、半ばおためごかしにマリーに問うが、彼女は、「葬式はいらない」ときっぱり断る。戦闘開始である。
遺体は教会の墓地には埋葬できないと、牧師は威厳をとりつくろい、拒否の姿勢。この悶着中にも居合わせた男どもは彼女の体に触れ、1人は下着を盗みポケットに入れる。彼らにとり、母親亡き後は、マリーを思い通りに出来るとの魂胆なのだ。多分、母親の生前中も、彼らは若いマリーに手を出していた様子が見て取れる。しかも、金を払わずに。




遺体を前のパーティー

 誰も手を出したがらない遺体、そこでマリーの頭の良さがさえる。貧乏な彼女、日頃は街の雑貨店でもほとんど金を使わないが、この日だけは大盤振る舞い、ソーセージ、ワインをごっそり買う。これで、いわば一席設けて、村の男性たちに飲ませる。
タダ酒に目のない親父たちは、飲んで騒いでと大喜び。そこでマリーは、へべれけの酔っ払いたちにつるはしを持たせ、母親の遺体を森の茂みの中に埋葬。これで、マリーの母親の葬式は終わり、飲まされて、働かされた男性たちは翌朝、皆二日酔いでダウン。マリーの作戦勝ちだ。




復讐の開始

 マリーに母親の生前から手を出したと思われる男たちは、ここぞとばかり「俺たちはお前らを学校へ行かせ、仕事も与えてやった」と恩を着せ、彼女との関係を強引に迫る。もちろんタダで。
ここで彼女はキレ、復讐へと乗り出す。迫る男に金の請求を行う。はなはだ下品な表現だが、「今まではタダだったが、これからはキッチリ払っていただきましょう」と。相手の性加害に対し、彼女も性で対抗する図式となる。
マリーは、今までのすっぴんから化粧をし始め、洋服も粗末な薄手から体の線がくっきり見えるシャレたワンピースへと変身、下着も目を引くものを付け、男性たちから労働の対価を受け取る。
男どもは小娘にやられたとばかりに、悔しがり、金を払わされた彼らは協定値段の相談をする。一時は、1回40フランであったのが、5フランと勝手に決める。しかし、彼女の方はしたたかで、妻どもにばらすと脅かし、足りない場合は注文した雑貨代金を抑える。
タダでたかろうとする男たち、一方では、昔から親切に接する男性アンドレ(ミッシェル・コンスタンタン)の巡回映画会の人間がおり、彼女にはきちんと規定料金20フランを払う。そして、自分と一緒に映画を村々に掛けて回る旅に出ることを誘う。そのレパートリーの中の1本が『海賊のフィアンセ』である。
ラストは、エゲツないほど、痛快である。教会を全く信用しないマリーが珍しく現われ、教会内の高い場所に以前買った録音機を回し、男たちの愚行の音声を流し、村人たちに大恥をかかす。教会へ来る前に、彼女は忌まわしく汚い小屋を燃やし、過去とおさらばし、胸を張って村を後にする。
このように、カプラン監督は「五月革命」の精神たる、女性の尊厳を正面に据え、オトコ社会へ厳しい抗議の矢を放つ。艶笑コメディータッチだが、変わらねばならぬ社会を見つめる、カプラン監督の高笑いが聞こえるようだ。




(文中敬称略)

《了》

12月26日(金)、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国順次公開

映像新聞2025年12月15日掲載より転載

 

中川洋吉・映画評論家