「日本映画−夏へ向けての公開作品、中堅監督の見応えある新作」
この夏へかけての日本映画が粒揃いだ。
主として、若手、中堅監督の活躍が目覚しい。前半期製作作品で、公開は5月から夏へ向け待機している。
作風は多種多様で、共通のテーマを見付けることは難しい。しかし、各作品が持つ、個性と多様性に注目すべきものがある。
作り手の監督、脚本家の描く世界が、身の丈に合い、無理がないところに好感が持てる。
好調日本映画を代表する7本を紹介する。
「山桜」篠原哲雄監督(5月31日公開)
「闇の子供たち」阪本順治監督(夏休み公開)
「歩いても歩いても」是枝裕和監督(6月28日公開)
「おくりびと」滝田洋二郎監督(9月公開)
「ぐるりのこと」橋口亮輔監督(6月公開)
「百万円と苦虫女」タナダユキ監督(7月公開)
「丘を越えて」高橋伴明監督(5月17日公開)
|
(c)「山桜」製作委員会
|
「山桜」の格調の高さは特筆ものだ。藤沢周平原作の時代劇で、僅か20ぺージの短編である。
主人公は、再婚の若い女性(田中麗奈)と藩の若き武士(東山紀之)で、舞台は、藤沢文学お馴染みの東北の小藩、海坂藩、時代は江戸後期。
主人公たちの藩士は、慎ましやかな暮らし振りの人々であり、山田洋次版、藤沢作品でも何度か目にしている。
女は、前夫と死別し、新たに嫁ぐが、そこは、暖かな実家と違い、蓄財に執着する夫と義父、彼女を出戻りの嫁と蔑み、家名に異常な誇りをもつ義母。彼女は、夫、義母の監視下、外出もままならない。その外出、叔母の墓参りがやっと許され、途中で美しく咲く山桜に目を留め手折ろうとするが手が届かない。そこに現れた若い武士が、彼女のために手を伸ばし、枝を手折る。東北の遅く、美しい春と桜、そこで巡り合う男と女、明るさの中にも静謐(セイヒツ)さが宿る。そこには、藤沢文学独自の美意識が輝いている。
初対面の2人だが、実は、武士は嫁ぐ前の彼女に縁談を申し込んだ当の本人であった。ここに、原作の話の上手さに改めて感心する。
武士は、藩を牛耳る重臣の不正に怒り、単身、彼を斬捨て従容と獄門に下る。女性は、彼の行動の後、重臣の子分であった夫を前に、きっと目を据え決意を述べ、婚家から出て行き、新しい人生へと立ち向かう。この静かな決意を見せるシーンは作品の白眉である。
人間の尊厳、品格を研ぎ澄ました刀のように鋭く問い掛けている。
現代的な田中麗奈の容貌、時代劇には不向きである。しかし、彼女の持ち味である燐(リン)とした立居振舞いと相俟って、このミスマッチはそれなりの効果をあげている。若い武士の東山紀之は、テレビのCMで「俺は色男」的な姿を晒し、嫌味だが、今作品ではその嫌味が逆に凛々しさへと転じている。互いに心を寄せ合う2人の、背筋が伸び、胸を張り、相手の目を見詰め話す瑞々しさは作品のミドコロ。
山田洋次版藤沢文学で描かれる人間像は、下級武士の分(ブン)をわきまえた生き方を描くものなら、「山桜」はその分(ブン)を一歩踏み出している。ここが両者の描き方の違いだ。
|
(c)2008映画「闇の子供たち」製作委員会
|
今年50歳の阪本順治は、既に大物監督と見て良いだろう。「闇の子供たち」は彼の16作目で、作品系列は金大中事件の闇に迫る「KT」と同様、社会派作品である。それも、事件の核心へぐいぐい迫る骨太な作風だ。
物語の舞台は、タイ国で、幼児売春、人身売買、臓器売買の闇に切り込む作品。
タイ山間部から売買され、バンコクに連れてこられた幼児たちは、欧米人の小児性愛者の相手を強いられるが、マフィア絡みで警察も動こうとしない。病気の子供は、黒いポリ袋でゴミとして生きたまま捨てられる。臓器移植手術は、子供の生体から臓器を取り出す移植で、その買主は日本人である。
その闇をバンコク支局の新聞記者(江口洋介)と社会福祉活動のためタイに来た、若い女性(宮崎あおい)が追う。
被害者を追う人間が闇に足をとられ、犯罪を黙認せざるを得ない状況が描かれる。出口の見えない闇に、見るものはただただ慄(オノノ)き、何をすべきかが問われる。それを、阪本順治は「『闇の子供たち』は、日本人自身と自分に跳ね返る映画にしたかった」と語っている。救いがないが、状況を如何に良い方向へと持って行かねばならないことを考えさせる作品である。原作は梁石日の同名小説。
|
(c)2008「歩いても歩いても」製作委員会
|
是枝裕和監督、脚本の「歩いても歩いても」は、家族の繋がり、死、喪失というテーマを丁寧に紡いだ家庭劇である。
物語は、海の見える一軒家で繰り広げられる。古い家には医者を引退した父(原田芳雄)と母(樹木希林)が広い家で退屈な毎日を送る。
そこへ、次男夫婦(阿部寛と夏川結衣)が帰省し、長女夫婦も子供連れで現れる。そして、母の手になる料理が食卓を盛り上げる。この表面的な家族の再会劇の裏面にある、それぞれが抱える悩みが少しずつ浮かび上がる。大して起伏のないストーリー展開ながら、インパクトの強いハナシが展開され、家族の実相が明るみになる。
しかし、それらは悲劇でなく、各自の生き方が肯定的に描かれる。ゆるいリズムのハナシにアクセントを付けながら是枝裕和は、人間の醸し出す普遍性を見据えている。
脚本、映像、役者三者の融合が作品の質を高めている。敢くまで個人的感想だが、是枝作品には映画的感興が薄い難点がある。
|
(c)2008映画「おくりびと」製作委員会
|
滝田洋二郎作品は、映画的にいつも面白い。この監督、商業監督の枠の中に留まりながら、実に上手く、弾ける人間像を描くのにタ長けている。
「おくりびと」は、ハナシ(脚本)、シバイ(役者)が良く出来ている。
葬式の際、遺体を棺に移す納棺師たちが主人公。地方の納棺師会社の社長(山崎努)と、都会帰りの失業したオーケストラのチェロ弾きの青年(本木雅弘)が主人公。青年は旅行代理店と勘違いして、納棺師会社に、ひょんなことから入社。
全篇に漂うおかしみ、人が嫌う葬儀屋が、亡き人をあの世に送り出す大切な役割を担っていることを見る者に徐々に悟らせる。上手い展開だ。
|
(c)2008「ぐるりのこと。」プロデューサーズ
|
本年のベストワンの声も出る橋口亮輔の新作で、今作はゲイではなく、普通の若い夫婦の何気ない日々を描いている。
カンヌ映画祭監督週間で「ハッシュ」が大好評を博し、次回作が待たれたが、やっと登場する。6年振りだ。
物語の主人公は、法廷画家の夫(リリー・フランキー)と鬱病の妻(木村多江)の夫婦。
ストーリーは劇的な展開を見せるわけでなく、ささやかだけど大きな幸福と希望を描くもの。この作品のキーワードは鬱病であり、それは、フレッシュな感情でもう一度自分を見直すものと、橋口監督は語っている。日本中が鬱状態に陥ったバブル崩壊と9・11テロまでの約10年と夫婦の歩みを、時代背景を取り込みながら重ね合わせている。
橋口亮輔は、自身の世代を描ける作家であり、見る側にとり等身大の登場人物たちに自己を投影出来、そこが彼の魅力。
|
(c)2008「百万円と苦虫女」製作委員会
|
監督のタナダユキは橋口亮輔と同様、自身の世代を描ける作家である。
主人公の蒼井優は、デヴュー当時の大竹しのぶを彷彿させるカガヤキがある。
この彼女、飼猫をルームメートに勝手に捨てられ、その仕返しに彼の荷物を総て処分したカドで罰金刑を受け前科一犯となる。前科者の彼女、親元に居づらく各地を転々とする。その土地土地でアルバイトをし、百万円貯まると次の土地への移動を繰り返す。自分の生きる目的を捉えられない若い女性の姿が浮き彫りにされ、時代の雰囲気がうまく伝わる。その何気なさが良い。
|
(c)「丘を越えて」製作委員会2008
|
戦前のレトロ色満載、昭和歌謡が懐かしい快作。主人公の菊池寛(西田敏行)は、作家で文芸春秋社の創設者。その秘書の下町娘に池脇千鶴が扮する。この下町娘の恋と仕事を通じて、女性の自立を謳いあげるのが監督の高橋伴明。
テーマ性の強い作品が多い高橋伴明だが、このような昭和風俗ものでも手馴れたもの。池脇千鶴の自立を目指す下町娘の一途さ、賢さ、上手く役柄にはまっている。彼女にとり、「ストロベリーショートケイクス」(06)と並ぶ代表作。
GWから夏にかけ、見るべき邦画作品が揃った。高橋伴明監督の59歳を除き、取り上げた監督たちは、50歳以下の若手、中堅たちで、彼らは自分たちの世代を、自らの感性で描いており新鮮さがある。
外国で受ける北野武、青山真治、諏訪敦彦らの、説明を省き、映画文法を意図的に無視し、観念性を優先させる映画作りを乗り越える一群が確実に登場し始めている。
取り上げた作品は、1本も今年のカンヌ映画祭に選ばれていない。判断基準の相違であろう。
(文中敬称略)
映像新聞 2008年5月12日号より転載
《了》
中川洋吉・映画評論家
|