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「カンヌ映画祭2008 その(2)− パルムドール作品『クラス』現代社会の問題を象徴」

 2008年のパルムドール(最高賞)は、フランス作品、ロラン・カンテ監督の「クラス」に決定。
地元、フランスにとり、実に21年振りの最高賞であった。受賞式の発表後、「クラス」のチーム、出演の中学生、教員がステージに上がり、お祭り騒ぎであった。出演の中学生たちは、前日の「クラス」正式上映に合わせカンヌ入りし、その後、思いがけぬ受賞の場に立ち会った。総勢40人の多勢で、ショーン・ペン審査委員長や他の受賞者たちが霞むほどの異例なセレモニーであった。
21年前のフランスの受賞は、モーリス・ピアラ監督の「悪魔の陽の下に」である。この宗教性の強い作品に対し、受賞式会場にブーイングが起き、ピアラ監督はコブシ拳を突き上げ「私を嫌うなら、私も君らが嫌いだ」と応じた有名なエピソードがある。



パブリックとメディア

 パブリックとは観る側、メディアとは映画ジャーナリズムであり、ここ数年、両者間の乖離が目立っている。わかり易く言えば、メディアのマニアック化であろう。
 難解で、スタイリッシュな作品を映画祭側が選考、ノミネートする傾向があり、フランスの場合、ずっとこの流れに沿った作品が続き、21年もパルムドールを待たねばならなかったともいえる。
 例えば、ベルリン、ヴェネチア映画祭で数々の賞に輝く、ジャ・ジャンクー(中国)作品や、キム・ギドク(韓国)作品は、現在の映画祭ディレクターの感性を現わし、カンヌ映画祭選考担当のフレモ総代表の路線もこれらに近い。
 多くの反論を覚悟の上で言えば、大きな映画祭では、アート作品選考の共通基準が出来上がっているのではなかろうか。
 これらの映画祭スタンダードをあっさりと乗り越えたのが「クラス」のパルムドールである。



映画「クラス」とは

「クラス」
 「クラス」は原作モノの映画化で、原作者のフランソワ・ベゴドの中学校(コレージュ)教員体験を綴ったもの。ベゴドは、既に数冊の小説を書き、ル・モンド紙のサッカー担当記者で、この「クラス」では教師として主演している多才な人物である。
 作風は、ドキュメンタリー・フィクション(ドキュフィクション)であり、即興性が強い。撮影は、パリ20区、教育最優先地域内の実在の、いわゆる荒れる中学で行われた。
 一クラス、24人の生徒と、ベゴドふんする教師との丁々発止のやり取りが圧巻で、見終わった後、「本当に面白かった」との思いに至らせる作品だ。
 生徒は白人、黒人、アラブ人、アジア人と多様で、現在のフランス社会を反映している。丁度、1998年W杯優勝のフランスチームを彷彿させる。
 彼らは落ちこぼれ気味ではあるが、自己表現意欲は旺盛で、弁の立つ若者である。彼らと、教師による言葉を尽くした死闘が、この作品に弾むような躍動感をもたらせている。


「クラス」のテーマ

 一教室での出来事を描くこの作品、扱うテーマは監督自身によれば「私は先ず、学校自身を描いて見せたかった。つまり、学校という場は現代社会の総ての構成要件が集約されている。そして、現代の数々の問題が反響しあう共鳴箱なのだ」。学校こそ、現代社会の一断面であり、諸々の事象が散りばめられた現代社会の象徴と、彼は捉えている。
 この教室という枠内で生徒たちは、フランス語授業で文法を学び、更に、互いを尊重する精神を教えられる。このことが、人間の成長過程として大変重要であることを力強く語りかけている。
 教師役で原作者ベゴドと学生を結ぶのは、対話であり、それを如何に深めるかが「クラス」の見ドコロである。
 最初は反抗的で、騒がしく、口だけは澱みなく廻る生徒たちとの対話は、彼らの無気力、投げやりな言動を追い掛け、辛抱強く、解答を迫る教師との緊張感が溢れる。言い放し、聞き放しでない、話し合いの中身が徐々に深まる。この段階へまで運ぶ、演出と主演の教師役ベゴドの演技は、シナリオに書かれた芝居を超え、クリエイション(創造)へと昇華している。対話が深まる過程の描き方、次に来るであろう予期せぬものを想像させ、知的好奇心を大いに刺激する。見ていてハラハラするくらい面白い。台詞の決ったフィクションでは、このようなスリリングな展開とはならなかった筈だ。


カンテ監督

パルムドール カンテ監督(c)八玉企画

 もうすぐ47才の誕生日を迎えるロラン・カンテ監督は、映画名門校イデックの最後の卒業生(その後フェミスに改称)。50才を前に、4本の長篇とはいささか寡作な作家である。
 しかし、この4本、総て社会的主張を持ち、ヴェネチア映画祭を始め、数々の映画祭での受賞歴を誇り、今回のパルムドールで間違いなくカンテ監督は大物監督の仲間入りを果すであろう。第1回作品「ヒューマンな可能性」(99)は、親子の社会階層対立、3作目の「南へ」(05)はハイチにおける白人女性の現地人男性の買春、主演はシャーロット・ランプリングである。彼は社会問題に大きな関心を寄せ、且つ、ヒューマンな一面も作品から読み取れる。「クラス」は最新作で4作目。


「クラス」の撮影

 パルムドール受賞記者会見で、カンテ監督は撮影について語った。水曜日にアトリエ(実技教室)を開き、50人の生徒を24人に絞り込んだ。そして、昨年の夏休みに7週間の撮影を行った。予算は300万ユーロ(約5億円)と低予算だが、この受賞でヒットが予想される。以前、ドキュメンタリーのニコラ・フィリベール監督は、田舎の小学校を扱った「ぼくの好きな先生」(02)が予想外のヒットをし大儲けしたが、出演児童の親から分け前請求の裁判を起こされた事件があった。この事件の再発を心配する向きもあるが、プロデューサーは「まさか」と全く取り合わない。
出演した生徒たちの大半は、将来、映画製作へ進む希望を持っている。作品参加ですっかり映画の虜になったようだ。


南米、イタリアの復調

「レオネラ」

 今年、目立ったことに、長い間不振だった南米、イタリアの復調がある。
特に、南米作品には力があった。軍事独裁政権時代がようやく終り、左翼政権が多く誕生している南米は、民主化へ向かう社会の方向性と映画の復調は無関係とは思えない。
アルゼンチンの「レオネラ」(パブロ・トラペロ監督)の描く女子刑務所は、社会の縮図であり、社会のひずみを感じさせる力作だ。ある女性が、殺人罪で逮捕される。本人は、当時の状況をはっきり思い出せず、混乱したままである。ストーリーは、犯罪モノではなく、彼女が犯人かは語らない。寧ろ、女子刑務所内の生活に重点が置かれている。女性服役囚の集団生活で、中での出産、4年目までの育児が認められている。裕福な主人公と違い、多くの女性は下層出身者で、犯罪を犯さざるを得ない背景が描かれる。そして、この集団生活の連帯感のあり方、個人の尊厳の扱いに力がある。ラストは、出所した彼女は、幼児を連れ、ひそかに隣国へと脱出するところで終わる。アルゼンチン社会の、今まで余り知られなかった一面が出ている。


「リナ・デ・パッセ」

もう一本、ブラジルのウォルター・サレス、ダニエラ・トーマス共同監督の「リナ・デ・パッセ」も興味深い。一人の母、サンドラ・コルベローニ(主演女優賞受賞)は中年に達したシングル・マザーで、父親の違う4人の子供を抱え、貧しさと闘いながら毎日を送る。サウパウロ市のスラム街の住民である一家の長男は、この環境からの脱出を常に考えている。浮かび上がる唯一の手段はサッカー選手になることであり、何回も入団テストをトライするが、応募者が多く、望みが叶わない。ブラジルの閉塞的社会状況が良く出ており、貧しい住民の暮らし振りが他人事と思えない。これもリキ力のある作品だ。
母親役のコルベローニは、45才の世界的には無名の女優。普通の生活人の感じが良く出ている。



イタリアのパワー

「ゴモラ」

 グランプリ受賞の「ゴモラ」(ナポリのマフィア、カモーレの意、マッテオ・ガローネ監督)は、ガモラの若者が送る希望なき青春が描かれている。郊外の古いパルトマン群にゴモラが共同生活している様子に先ず驚かされる。イタリア映画独特の生活観が充分伝わる。
もう一本のイタリア作品は、審査員賞受賞の「イル・ディーボ」(皇帝の意)(パオロ・ソレンティーノ監督)は、ドキュメンタリータッチでぐいぐいと観る者を惹きつける。戦後のイタリアで7期首相を務めたジュリオ・アンドレオティが主人公。この小柄で老獪な老人はマフィアとの関わり、アンドレ・モロ首相殺害事件への関与を疑われる
「イル・ディーボ.j

超大物政治家。彼の権力掌握振りが見ドコロ。






審査員の評価

 フランスの映画メディアは、自国のアルノー・デプレッシャン監督の「クリスマス・テール」に最高点を与えていた。しかし、ショーン・ペン審査委員長は、「現在、我々の周囲で起きている社会的問題を充分認識している作品が賞を得るにふさわしい」と公言した通りの結果となった。
審査員たちは、観念的なフランス流の演出主義作品よりは現代の問題に対し強い関心を示す作品に与した。その結果が、ドキュフィクションであり、演出主義とは正反対に位置する、社会性豊かな「クラス」のパルムドールである。今までのフランス出品作品の中では異質であるが、現代社会の要請を受けての判断であろう。そこには、映画は時代と無縁であり得ないとするメッセージが込められている。




(文中敬称略)
《続く》
映像新聞 2008年6月23日号より転載

中川洋吉・映画評論家

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