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「カンヌ映画祭2008 その(3)−『ある視点部門』に黒沢清作品」

 今年のカンヌ映画祭に、日本からのコンペ部門への出品はなかった。黒沢清監督の「トウキョウソナタ」がノン・コンペの、ある視点部門に出品されたのみであった。例年、1,2本は選ばれる日本映画、今年は零であったが、日本映画が不振というわけではない。今年、前半から夏へかけて、むしろ、日本映画は充実しており、カンヌ基準に合わなかったと解釈される。
日本以外に、中国はジャ・ジャンクー監督の「二十四城記」、韓国はコンペ部門こそ零であったが、特別招待枠で2本が選出された。
この両国とも、映画水準が安定しており、それぞれ力を発揮した。


ブラインドネス

「ブラインドネス」の出演者

 今年のコンペには、わが国からの出品はなく、辛うじて、ある視点部門に黒沢清監督の「トウキョウソナタ」が入った。
日本関連では、オープニング作品「ブラインドネス」(ブラジル、フェルナンド・メイレレス監督)は、プロデューサーに日本人、酒井園子、そして、出演者に伊勢谷友介と木村佳乃が加わった。若干、日本色が交じったというところ。

パニックもので、感染症により、人々が次から次へと失明する社会が描かれる。感染者は強制隔離され、その収容所内で人々は欲望を剥き出しにし、傷つけ合う。

「トウキョウソナタ」の関係者(c)Kazuko Wakayama

近未来の恐怖を採り上げ、その発想自体は非凡である。原作はポルトガルのジョゼ・サラマーゴで、この彼から映画権を買ったのがプロデューサーの酒井園子である。ハナシは面白いが、失明の恐怖のインパクトが弱い。失明自体の恐ろしさ、そして、人間が正常な感覚を失うサマ様を描き込めば、もっと濃度の高い作品になった筈。日本人俳優2人も外国人の中に入り、見劣りせず存在感を出し、それ自体は合格であった。ただ、この作品の中で、果たして日本人が出る必要があっただろうか。


TOKYO

 一見、日本作品と思えるが、これは国際合作で、日本からも出資している。これも、ある視点部門参加作品で、東京を舞台に3人の監督が日本人俳優を起用しての一作。
但し、監督はミッシェル・ゴンドリー(仏)、レオス・カラックス(仏)、ポン・ジュノ(韓)と日本人ではない。
第2話の「TOKYO!(メルド)」が面白い。メルドとは糞の意で、英語のシットに当たる。東京に正体不明の白人が現われ、彼はメルドを連発し、マスコミはムッシュ・メルドと命名、はやし立てる。この発想のユニークさがメルド篇の面白さである。アイディアと機知で見せる作品。


カンヌ・ファミリー

 黒沢清監督は、今では大クロサワ(明)と、海外で混同されない程、その知名度の高さは国際的である。
カンヌ映画祭には「カリスマ」(00)(監督週間)、「回路」(01)(ある視点)、「アカルイミライ」(03)、そして、今回と既に4回の出品歴がある。カンヌ映画祭の選考では、同じ監督が何度も選ばれる傾向がある。
彼はホラーの黒沢と言われ、それが独自のスタイルとなっている。若手監督がカンヌで認められるには、かなり、スタイリッシュな作風が要求され、黒沢監督はこの条件を満たしている。
何度もカンヌに選ばれている最近の監督では、他に青山真治、河瀬直美監督がおり、彼らはカンヌ・ファミリーと呼んでもよい。
カンヌの選考は、同じ監督が何度もリピートし選ばれることが多く、コーエン兄弟、ヴィム・ヴェンダース、そして、新しいところではトルコのヌーリ・ビルゲ・ジェイランが挙げられる。
彼らのスタイリッシュな作風は、フランスの映画メディアに受け、そこが高評価につながっている。


「トウキョウソナタ」

「トウキョウソナタ」

 ある視点部門における黒沢作品の上映は、夜の10時半開始にもかかわらず、多くの観客が会場を埋め、上映後も盛大な拍手を受け、好評裡のうちに終了した。アジアの、新しいスタイルを持った映画人としての評価が浸透しているためであろう。
 黒沢監督は今までのホラー路線から、今回は家族へと舵を切った。元来、彼の作風は、
人を怖がらせるホラーでなく、不条理そのものを描くところに特徴があり、今回の舵の切り換えは、さして不思議ではない。
「トウキョウソナタ」の脚本は黒沢監督自身のアイディアも盛り込まれている。
ストーリーの骨子は、家族の崩壊と再生である。話は一寸それるが、家族というテーマ、今年だけでなく、ここ数年非常に増えている。元々、家族とは人間にとり永遠のテーマであるが、最近は非常に多い。世界の不安、人間の絆のモロ脆さと、それを求める感情が働いていると考えられる。天下国家を論ずる以前に、根元的な人間関係の見直しが迫られている社会的風潮とは無縁でない。

 作中の主人公は、リストラされた会社の総務担当ベテラン社員(香川照之)で、彼は失職の件、家族に話せず、毎日、背広、ネクタイで出社を装っている。その彼には2人の息子がおり、小学校の幼い息子の目から、この家族の有様が語られる。妻(小泉今日子)は、夫の事情を知りながら、ただ黙って毎日を送る。上の息子はアメリカ軍入りを志願し、親を困惑させ、下の息子は、親に黙ってピアノのレッスンを受ける。妻は、忍び込んだ泥棒(役所広司)に半ば脅かされ、半ば自らの意思で家を出る。
最後は、もう一度、一家に平和が戻り、下の息子のピアノおさらい会のシーンでハッピーエンド。
今では、よくある家族崩壊の話だ。これをどのように演出するかが、この「トウキョウソナタ」の見ドコロであろう。しかし、基本的にハナシに無理がある。特に、ラストのハッピーエンド、飛躍しすぎ、過程がごっそりと抜け落ちている。もう一点、役所広司の泥棒の存在、黒沢監督自身のアイディアであるが、この部分、全体の中で浮いている。即ち、無くても、それほど全体像に影響は出ないと思える。
更に、致命的なのは、この家族に会話と連帯感に乏しいことを、黒沢作品は現象として描いている。この欠如は、日本社会全体についていえることであり、このことをもっと突っ込めば面白い問題提起となったはずだ。もう一歩の踏み込みが欲しかった。

 

「二十四城記」

「二十四城記」

 コンペには、中国の「二十四城記」(ジャ・ジャンクー監督)が出品された。この監督、スタイリッシュな独自のゆるいテンポで物語を展開させ、そこが国際的に高く評価されている。又、ドキュメンタリーにも並々ならぬ関心を抱き、その融合体の「二十四城記」は事前から期待された一作であった。いささかマニアックな映画ジャーナリズムの支持は圧倒的で、下馬評もトップクラスであった。
物語は、地震の起きた成都の軍需工場を舞台としている。この古い工場の閉鎖に伴う、人々の反応をドキュメンタリーで描くもの。三代に渉る労働者とその家族が登場し、若い世代は俳優により演じられる。
社会主義中国の半世紀に渉る変化を採り上げ、社会性、映像的手法に独自のものがある。テーマへのアプローチ、現代中国社会をすくい取る優れた視点がある。しかも、その映像的手法といえるリズムのゆるさは人をまどろみにイザナ誘う魔力がある。
記者会見では、地震被災者への黙祷が捧げられた。

 

元気な韓国作品

「The Good, The Bad, The Weird」

 コンペ出品の韓国作品はなかったが、ノン・コンペ枠に「善玉、悪玉、気狂い」(キム・ジウン監督)、深夜上映枠に「ザ・チェイサー」(ナ・ホンジン監督)が上映された。
両作品とも、荒唐無稽なアクションもので、目茶苦茶面白い。B級娯楽作品が充実することは、その国の映画に勢いがあることで、2本ともその流れを代表するもの。
「善玉…」はキムチ西部劇。時は日本占領時。日本軍、中国のアウトロー、韓国のギャングが三つ巴で秘宝を追うもの。三池崇的なバカバカしさが何とも楽しい。

「ザ・チェイサー」

「ザ・チェイサー」は現代もののアクション。元探偵で、今はデリヘリ嬢(コールガールの宅配)の元締めの男が主人公。手駒のデリヘリ嬢が殺され、その復雙に、合法、非合法、あらゆる手段を尽し、殺人鬼を追い詰める。主人公の腕力に警察も一目置き、彼の超法規的行動を警察は黙認、この両者の馴れ合いがおかしい。




カーウァイの新作

 「ASHES OF TIME REDUX」

 カンヌ常連の一人、ウォン・カーウァイの新作「アッシュ・オヴ・タイム・リダックス」は94年製作の「楽園の瑕」に20分分を加えたもので、骨格自体は変らない。中国の砂漠地帯の殺し屋の親分と、その親友が主人公。この2人に絡む美女たち。人を惑わす不思議なブドウ酒の存在と、ストーリー自体が縦横に発展するカーウァイの世界。トニー・レオン、マギーチャンの若さに驚かされる。又、今は亡き、レスリー・チャンの姿が懐かしい。
アジアの娯楽に徹した作品に狙いをつけるのは、カンヌ映画祭の特技。そのカテゴリーに、今年は韓国作品が加わった。作品の多様性という点で、この選考の意味は大きい。

 



(文中敬称略)
《続く》
映像新聞 2008年7月7日号より転載

中川洋吉・映画評論家