「FIPA2009報告(2)」
テーマの多様性、内容に厚み
フランス南西部を襲った予期せぬ嵐のため、観客動員はそのあおりを受け前年よりも減少した。ビアリッツに腰を下ろし、既に十余年、市民的行事としてしっかりと定着したフィパは、地域振興、町興しの役割を充分担い、ビアロ(ビアリッツ住民の意)の年中行事の一つとなり、冬枯れの観光地を活性化させた。
内容的には、ドゥロ総代表の頑固なまでの独立精神が貫徹され、テレビ各局の助成は皆無であった。テレビ局の作品出品に際し、助成があれば公平性が損なわれるためである。但し、公共放送フランス・テレビジョンが費用負担するクロージング・レセプションは唯一の例外だ。ここまで徹底するとは、正に、武士は食わねど高楊枝の気構えだ。
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「ウモジャ」
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筆者は、日本作品が受賞したルポルタージュ部門を中心に見たが、今年は例年に比べレベルの高さが目を引いた。それは、テーマの多様性であり、作品の持つ厚みである。フィパ・ダルジャン(銀賞、第二席)の「ウモジャ−男子禁制の村」は、素材として非常に興味深い。ウモジャとは、女性が作り上げた共同体を指すもの。時代は1970年から2003年までのケニア北部の村での出来事を採り上げている。旧英国植民地ケニアでは現在まで英国軍隊が駐留し、基地の兵士たちが地元の女性たちを強姦し、その数が1600人にも上る、現代では信じられない事実がある。更に、村では男たちの暴力が日常化し、女たちは男の二重の暴力に苦しめられてきた。そこで、村の女たちは結束し、男たちを追い出し、女だけの村を作り上げた。時には、嫉妬した男たちが村へ侵入するが、女たちはそのために数人の男たちを雇い侵入者を撃退している。
強姦被害、女たちの口から言い難いことであり、今まで広く知られずに来た経緯がある。しかし、最早黙っていられない彼女たちは事実を公表し、人権集会に代表を送り、非人間的行為の撲滅のために立ち上がった。「ウモジャ」から二つの意味が汲み取れる。今まで闇に葬られていた事実の公表、そして、もう一つは女たちの人間としての目覚めである。ここでは、単に、突撃型、興味本位の扇情的ドキュメンタリーの域を越え、高い人間の意志が埋め込まれ、そこに作品の価値が宿る。因みに、女だけの社会は、観光客相手のビーズの装飾品を売って生計を立てている。このアクセサリー、アフリカの強烈な太陽の下、実に鮮やかに映える。
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「恨、自由の対価」
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「恨、自由の対価」はフランス作品だが、北朝鮮の脱北問題を扱い、フランス人のアジアに対する関心の深さを示す作品だ。元来、フランスのアジアへ寄せる関心は高い。殊に、中国へのそれは世界的に見ても他の追随を許さない。その他に、韓国、日本への関心の度合いが高まっている。過去に、フィパでは「南京事件」、「赤軍派」がセレクトされている。今回は、脱北者問題である。フランスはマグレブ諸国を植民地化した経緯があり、人種問題、移民問題、差別問題には敏感である。これらの問題を、フランス社会ではマイナーな問題ではあるが、公共テレビ、フランス・テレビジョンやその傘下のアルテ局が積極的に採り上げ、多くのドキュメンタリーの露出に大きな役割を果している。
「恨、…」は、フランスのドキュメンタリー作家が韓国のジャーナリストと一年間の調査を行い撮影された。脱北者たちの望みは自由な韓国へ逃れることで、ピョンヤン、ソウル間は僅か200キロに過ぎない。しかし、実際は、中国へ渡り、その後、モンゴル、ラオス経由で実に1万キロ以上の脱出行となる。しかし、現在までの成功例は8千人程で、いかに過酷な旅が強いられているかが画面から伝わる。
脱北モノは、今や日本でも氾濫し、北朝鮮評論家なる職業集団さえ生み出し、実態は割合知られており、日本人の目からすればさして新味はない。しかし、誇張や憶測を排除し、地味な調査に基づき、それだけに信頼がおける。ヨーロッパには、東欧、パレスチナ、イラク、イランの直ぐにも引火爆発しそうな問題と隣り合わせだ。そのため、北朝鮮で現在起きていることに対し、的確な情報が少ない。その意味で、このドキュメンタリーがテレビ放映される意義は大きい。
中国からルポルタージュ部門に出品された「リヴィング・ウィズ・ゴッホ」は誠にとぼけた味わいのある作品だ。
舞台は中国南部、人口1万5千人の町ダ・フェンである。そこで、泰西名画の海賊版の製作が町をあげて行われている。その中で、群を抜いて多いのがゴッホの「ひまわり」である。カメラは或る工房に入り、堂々たる作業振りを写し出している。数人の若い女性たちがせっせと筆を動かし、瞬く間に「ひまわり」を描き上げる。その値段は安く、観光客は競って旅の土産として買い求める。中国の偽絵画の7割がこの小さな村で生産される。この海賊版、「こんなに安くゴッホが買える訳ないだろう」、「皆が喜んで買うのだから、何が悪い」と罪の意識は皆無である。この作品から、海賊版と複製との線引きの難しさが浮かび上がる。映像の世界では海賊版は当然非難されねばならぬが、絵画の世界では、一刀両断、スパーッと黒白をつけ難い。絵画コピーに対する盲点を突く珍品。ひねりの効いた視点が面白い。
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「カヌン」
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今年のドキュメンタリー部門とルポルタージュ部門に、全く同じテーマの作品が選ばれた。タイトルは「カヌン」、復讐の掟の意で、アルバニアで既に数世紀続く慣習である。「カヌン」は別名「名誉と血」と呼ばれる公然復讐である。アラブ世界、インドなどで家父長が絶対的権利を握り、未婚の娘の性的関係を咎め、家名の恥とばかりに、若い女性を葬り去る話は耳にする。しかし、「カヌン」は、殺されたファミリーは相手のファミリー全員を殺す権利を持つとし、そのルイ累は幼い子供にも及ぶ。この非条理な掟のため、幼い子供たちは、一生、家から一歩も出ず、学校へも行けない状況に追い込まれる。両作とも、軟禁状態に置かれた子供を採り上げている。片方はその状況全体、もう一方は、軟禁される少年への密着取材となっている。一つのテーマに対し、二通りのアプローチがあることをこの選考は見せている。知らぬことを知らせる役割が広義のドキュメンタリーにあり、この「カヌン」は好例であろう。
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「アラブ語を話す土地」
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フィパで上映される作品、フィクションも含めて、きわめて社会性に富んでいる。言い換えれば、社会との接点を描かねば作品が成立しないということだ。
日本でも「ネットカフェ難民」シリーズ(NTV)が制作され、我が国の雇用のひずみを衝き、大いなる警鐘を鳴らしている。しかし、雇用問題一つを採っても歴史的必然性、政治の怠慢、労働者の意識の低さなどの分析力が弱い。外国が良く、日本が劣るとする短絡的結論を導くことではなく、日本の作り手に今一歩、社会と対峙する姿勢の必要性が求められる。
社会との接点を持つ作品は、フィパという窓から世界へと通じている。
パレスチナ問題を扱った「アラブ語を話す土地」(ドキュメンタリー部門、ギリシャ)のパレスチナ問題へのアプローチの仕方が興味深い。19世紀末に、世界に散ったユダヤ人たちは、自分たちの国家建設を目指すシオニスト運動を起した。この運動の標的となったのがパレスチナであり、元来、多くのアラブ人の生活地域であり、ユダヤ人と共生し、住民はアラブ語を話していた。ユダヤ人国家建設にまつわる歴史的過程の考察であり、現況への理解を深める意味で考えるべき問題点を提案している。
イラク問題では「パン、石油、そして、腐敗」(ルポルタージュ部門、フランス)の描くところはスクープそのものだ。2004年、イラクの日刊紙にフセイン政権時に国連の「石油とパンとの交換」プロジェクトに群がり利権を漁った人物と会社のリストが公表された。そのリストを追った作品で、世紀のスキャンダルの実相が綿密な調査により、その実体が甦った。
ロマ人の現状を描く「ロマのミトロヴィカ難民キャンプの短い物語」(ハンガリー)は、強い印象を残す作品だ。ヨーロッパの歴史で忘れられた存在であるロマ人の一部はコソボにも多く住み、アルバニア人、セルビア人の挟み撃ちとなり、多くが難民キャンプ生活を強いられている。
バルカン半島の負け組である彼らの劣悪な生活状況を、ハンガリーのテレビ局の女性ディレクターが採り上げた。このロマ問題は日本人にとり未知の世界であり、積極的に関わる若手ディレクターの熱意が作品から充分伝わる。
これらの意欲的な作品、必ずしも、当事国の人の手によるものではない。それらはフランス、ギリシャ、ハンガリー作品で、国境を接するヨーロッパならではの共同作業である。それら門戸を開くのがフィパであり、又、放映の多くがヨーロッパのテレビ局が担っている。ヨーロッパという大きくはない地域の特徴を生かし、互いに手を差し伸べ、橋を架けての制作が高い密度を持って行われている。これはフィパ、そして、フェスティヴァル効果といえる。
映像新聞 2009年3月2日号
(文中敬称略)
《続く》
中川洋吉・映画評論家
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