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「「第22回東京国際映画祭2009」レポート(2)
− アジア部門

−アジアから多様な作品群
 日常の暮らしから伝わる情感

 「東京国際映画祭」(以下TIFF)コンペ部門は、世界の若手監督の新しい才能に触れられる場である。一方、アジアの人々の日常の暮しから伝わる情感や感興を目に触れ、肌で感じられるのがアジア部門だ。アジア部門、例年、30本近くの作品が上映され、無名に近い監督作品が多く、当たり外れは運任せの一面もあるが、玉手箱的な楽しみもある。但し、「何、コレッ」という作品も確かにある。今年は、中韓台の東アジアの常連国、東南アジアのフィリピン、マレーシア、シンガポール、インド、タイ、中東のイラン、トルコ、そして、アジアとして扱うことが躊躇されるイスラエルと、多様な作品群が取り揃えられた。

「私は太陽を見た」

「私は太陽を見た」

 トルコ作品だが、扱う対象はトルコ領内在住のクルド人一家である。領土を持たないクルド人は、トルコ、イラン、イラクを居住区とするが、何処の国々も彼らを異分子、少数派扱いし、クルド人の自己アイデンティティを求める自尊心を傷つけている。中東におけるクルド問題はいつ爆発してもおかしくない火種でもある。彼らを抱え込む国々は強圧政策をとり、権力、軍事力で押さえ込もうとしている現実がある。当然、そこには摩擦が生じ、数々の悲劇がもたらされる。
 
 物語の舞台はトルコ南東部の美しい山間の地。クルドの人々は牧畜で生活の糧を得ている。しかし、この楽園、政府、反政府の軍事抗争地であり、住民は軍の命令により退去を余儀なくされる。大家族のクルド人一家は、幼い子供たちを伴い、一先ず、首都、イスタンブールに落着くが、生活の扶助もない厳しさである。トルコ国内でクルド人が余計者扱いされている様子がうかがわれる。

 大人たちは外で働き、幼い子供は一日中、アパルトマンで大人の帰りを待ち、年上の子が幼児の面倒をみる。文明とは程遠い山間の牧畜生活、町の電気店で生れて初めて見た電気洗濯機に目を丸くする。奮発して購入するが、まるで宝物を手にしたような喜び様。しかし、悲劇が起る。留守番の幼児が、一番下の子のおもらしを洗うために、赤ん坊ごと洗濯機に入れてしまう。文化の落差による無知が、見る側に伝わる。ジリ貧の大家族、国を離れる決心をする。ヤミ業者に高額代金を支払い、ヨーロッパを目指し密航する。一度は、本国強制送還処分となりながら、最終的にノルウェーで亡命が認められる。トルコからノルウェーの流浪(密航)の旅、正に大河ドラマである。

 作品のテーマは、家族の絆である。もう一つ、垣間見えるのは、移民に対する寛容なヨーロッパ諸国のもつ高い人道性である。各国は失業問題を抱え、移民抑制に躍起となっている。しかし、多数の移民を受入れている現実がある。移民鎖国の日本も、アジアの問題として、移民受入れにもっと積極的にならねばと考えさせられる。欧州で身近な問題、確実に日本にやってくるのだから。



「夜と霧」

「夜と霧」

 この監督作品であれば見ても損しないという監督たちが各国にいる。香港なら、アクションもののジョニー・トウ、ドラマならアン・ホイだろう。
ホイ監督作品は、一言でいえば、上質なメロドラマである。メロドラマこそ究極の映画とする考えもあり、これは大きな流れである。
今回のアジア部門では、アン・ホイ監督作品の特集上映が組まれた。

 最新作「夜と霧」の舞台は香港の庶民的な団地である。07年には今作と全く変らぬ舞台の、同団地で「生きていく人々」を製作した。しかし、今作で描かれる内容は正反対だ。「生きていく人々」では母子家庭と孤独な老女の交流を淡々と描き、人間はそれぞれの境遇で生きねばならぬとするメッセージが込められていた。今回の出品作「夜と霧」は、人間のどうしようもない心の闇を採り上げた悲惨な物語である。最近の香港映画では、地元の人々と大陸からの人々の軋轢を描く作品が散見するが、今作もその範疇。主人公の一家の夫婦は大陸で知り合い、職を求め香港に移住する。夫は職が見付からず、若い妻が食堂で働く。2人には幼い双子の娘がおり、失業中の夫の僅かな生活保護と妻の稼ぎで生計を立てる。彼は家長としての権威にこだわり、家族を思いのままに従わせようと当り散らし、暴力を振う。難を避け、保護施設に避難し、夫の暴力から逃げようとするが、執拗に後を追う夫の哀願で一旦は家に戻る。しかし、またしてもの暴力、そして、一家無理心中と、悲惨な毎日にピリオドが打たれる。
家庭でのDV、男の自暴自棄と何でも他人のせいにするズルさ、事態は悪い方へと転がり落ちる。
展開される悲劇、失業問題、大陸出身者の香港での生き難さ、身勝手な男の論理、貧弱な救済制度の描き方にリアル感がある。ここに、生活者の視点に立つ思考、秀れた映画的感性に、アン・ホイ監督の人間を見る目の確かさがある。



「シーリーン」

「シーリーン」

 イランを代表する大物監督アッバス・キアロスタミの新作が登場した。今回、彼は、非常に凝った手法をぶつけてきた。「シーリーン」とは、イランでは誰もが知る、12世紀の有名な物語のこと。この原作作品の上映会場が舞台であり、映画そのものは音声だけで、映像は登場しない。全篇、観客のアップで通す、実験的手法を用いている。各シーン、反応する百人を超す女優のアップだけで物語が進行する。アップを、フェイド・イン、アウトでつなぎ、移動撮影はない。この手法には意表を衝かれた。百人余りの女優、イランでは著名な面々で、何故か、その中にフランスの大スター、ジュリエット・ビノシュの顔も見える。最近のイランはイスラム保守派政権で、検閲が一段と厳しくなり、キアロスタミ監督は緊急避難として、非政治的素材を扱ったと思われる。


「よく知りもしないくせに」

「よく知りもしないくせに」
 韓国映画学校の教授が「最近の学生映画は、皆ホン・サンスのコピー」と嘆いたことを直接耳にしたことがある。
ホン・サンス流とは簡単に言えば、日常性の中の、非日常的行為や言動に重きを置く作風である。
この作風、若手映画人には大変人気があり、我が国の青山真治、諏訪敦彦、黒沢清の作風と共通するものがある。
「よくも知りもしないくせに」の主人公はアート系映画監督。彼は、地方の映画祭に審査員として招かれる。そこで旧友と再会し、痛飲の果て、友人宅に連れて行かれるが、友人は泥酔、その間に彼の妻と関係を持つ。それが原因で旧友から絶交を申し渡されるが、彼には理由が理解できない。
次いで、別の大学に講演で呼ばれ、昔の彼女と再会、何やら怪しい雰囲気となる。女性にだらしない男性の日常を描くが、男はそのことを自覚していない。そのような曖昧ではっきりしない描き方に未消化感がある。しかし、ここが、不条理的とする若者には受ける。本作で、ホン・サンス監督人気の一面が覗けた。



ボリウッド炸裂

「チャンスをつかめ」
 「チャンスをつかめ」はインド・ボリウッド・パワー全開で大いに楽しめる。スターを目指す若き男女が織りなすバックステージもの。いまやハリウッドに対抗するインド・ムンバイだが、この地で製作されるボリウッド作品、娯楽映画の受ける要素が総て詰め込まれている。ベースは若者の恋で、必ず歌って踊ってのシーンがたっぷり挟み込まれる。
しかも、154分と2本弱の長尺で、大衆娯楽作品に徹している。美男、美女の恋はハッピーエンド、ノリの良い音楽、思わず体が動く心地好さ、そして、たっぷり楽しめる長さ。総て予定調和の世界だが、これが、安心できるお約束。もし、これらの要素を欠けば観客は満足しない仕掛けなのだ。ボリウッド作品の偉大なるマンネリズムのすごさを「チャンスをつかめ」で再発見した。ここには、一般大衆の夢と憧れが見られ、これこそがアジア映画の醍醐味なのだ。



選考範囲はイスラエルまで拡大

 アジア部門の選考は、映画祭や現地訪問による、作品探しの努力の跡は充分見られる。年々、守備範囲が拡がり、トルコ、イスラエルまで手を伸ばしている。これらの国は果たしてアジアなのだろうか。毎年疑問に思う。しかし、近年のトルコ映画の勢いは目覚しい。また、パレスチナへの過剰報復で多くの市民の犠牲者を出すことをいとわないイスラエル政府に対し怒りを感じるが、同国作品の優秀さは否定できない。これらの国の作品レベルの高さを熟知する選考者にとり、非常に悩ましい問題であることも容易に想像できる。しかし、このまま拡大路線が続けば、ハンガリーのマジャール族はチンギス・ハーンの末裔であり、アジアの範疇とする珍妙な結論が導き出され兼ねない。この点が心配だ。



 
審査員一覧


審査委員長 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ(監督、メキシコ)
委員 原田美枝子(女優、日本)
イエジー・スコリモフスキ(監督、ポーランド)
カロリーヌ・シャンプチエ(撮影監督、フランス)
ユ・ジテ(俳優・監督、韓国)
松本正道(シネクラブ・ディレクター、日本)






(文中敬称略)
 《了》
映像新聞 2009年11月16日号掲載

中川洋吉・映画評論家