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映画「遺体 明日への十日間」
死者と向き合う被災者の姿

 タイトルの「遺体 明日への十日間」(以下「遺体」)と聞けば、ミステリーを思い浮かべる向きも多いと思う。しかし、今作はまるで違う。3・11−東北大震災で亡くなられた方々に向き合う人々の物語だ。
震災を採り上げた作品は、一つのジャンルが生まれる程数多い。その中にあり「遺体」は、他と異なるアプローチが特徴だ。



映画化

「遺体」
(C)2013フジテレビジョン

 原作はジャーナリスト、石井光太のルポルタージュ「遺体、震災、津波の果てに」(新潮社刊)である。監督は君塚良一、彼は「先祖になる」の池谷薫監督同様、震災直後、「何かをしなければならぬ」という思いに駆られ、「復興のために何かできる筈なのに、何もできていない自分に対して後ろめたい感覚を味わい始めた。」その時、友人の映画監督から勧められたのが石井原作であった。このルポルタージュに君塚監督は大変なショックで、特に、同じ津波の被害者が犠牲になった人々や、その家族のために献身的に働いた事実に心打たれ、「この原作を何とか人々に伝えねば」との思いで映画化を決意した。



大震災後の安置所を舞台に展開


「遺体」
(C)2013フジテレビジョン

 物語の舞台は釜石市、津波の難を逃れた高台の中学校講堂。震災直後、多くの遺体が体育館に運び込まれる。津波により、電気、水道などライフラインが破壊され、被災者たちをはじめ、市役所の幹部や多くの人が、何かをせねばならぬと思いながらも、どう動くかも全くわからず、未曾有の津波の傷痕の前に、ただ立ち尽くすのみであった。
その間、遺体はどんどん安置所代りの講堂に運び込まれ、雑然とその辺に放置される。ドラマはこの安置所を舞台に展開される。


救援のボランティア



 リーダー役の西田敏行が好演
 人々が何をして良いのかがわからない中、定年後、地区の民生委員を務める初老の男(西田敏行)が、自ら志願し、体育館に駆けつける。定年前、彼は葬儀社勤務をしていたが、震災後の大量の遺体に立ち向うことは初めてのことであった。だが、人生、職業経験豊かな彼がリーダーとなったのは自然の成り行きだった。リーダーと共に働くのは、検視の医者と歯科医で、彼らは黙々と遺体に向き合う。だが、他の救援の人々はあまりの有様に言葉を失い、自失茫然状態だ。そこで、リーダーの西田は、先ず、バラバラにおかれた遺体をキチンと並べることを提案する。この並べ直しは、死者への敬意と共に、作業の効率化も意図している。彼は、決して命令せず、皆で力を合わせようと話す。更に、死者への敬意から、彼は、暖房もなく、泥だらけの体育館に入る前に靴を脱ぎ裸足となる。これは、遺体への敬意である。彼の一寸した気遣い、作品の基調となるトーンを視覚的に見せる、秀逸なシーンである。
この裸足のシーンは、西田の提案である。正式な土下座は履物を脱ぐのが定法とされるそうだが、それと同様なのだ。




細かい心遣い


 「遺体」と死体との違いは、心を通わすことができるのが「遺体」とリーダーの西田は説き、彼は、皆に優しく話しかける。例えば、死後硬直の遺体の顔をマッサージし、生気を取り戻させ、死化粧を施すシーン、子供を失い棺から離れず嗚咽する若い母親に、「天国へ皆で送ってあげよう」と慰めの声を掛けるシーン、たった一言で若い母親や犠牲者の遺族はホッとし、安置所の空気は和む。生きている人間の死者への思いやり、そこには言葉の重みがある。



お経


 遺体は子供だったり、知り合いだったりし、人々を悲しませ、時に絶望させる。その折、自分も被害に遭った僧侶が駆けつけ、お経をあげる。仏様(ほとけ−死者)がいれば、お経をあげるのは見慣れた光景である。しかし、今作「遺体」では、お経が体の中に沁みいるようだ。死者を弔う気持ちには変わりないはずだが、送る側の思いが素直に届くのだ。これは、この作品自体の持つ力であろう。万人が安らぎを覚える不思議な一コマである。

風化させない意志


 若い母親の嗚咽がやむシーン、僧侶の読経が心に沁みるシーンの奥には、作り手の大震災を風化させぬ強い意志が働いている。他にも、死者に対する細やかな気遣いを表わすエピソードが重ね合わされる。
献身的な医師、歯科医の身元確認作業、疲労の限界を超えた彼らの働きは単なる職業倫理に基く医療行為ではない。被災者と寄り添おうとする気持である。何をして良いのかわからない釜石市職員の若い女性の、死者のために祭壇を作ることの提案など、大災害の記憶を風化させまいとする強い意志が働いている。福島原発の大被害、地元以外では風化の様相を呈し、脱原発の動きが鈍くなる現状を思うにつけ、釜石市民の真摯な発信を脳裏に刻まねばならない。

分かちあうこと


 今作は、ドキュメンタリータッチであるが、綿密な劇構成に支えられている。「遺体」を前にする人々は、物事の善悪の判断の前に、動かぬ事実が突きつけられる。それに対し、最大限の人間愛を示し、唯一の目的である死者を如何に、安らかに送り出すかを考える。
そこには、生者の人間関係、葛藤、そして、シナリオ作成上盛り込むドクなどが捨て去られる。この多くを捨てた姿勢が、作品に一本の太い芯を通している。死者に対し生きる人々がどれ程思いをめぐらすかが重要なのだ。

上手い役者たち


 死者への敬意、そして、被災者の無念を分かち合うことが、今作「遺体」の述べんとするところである。その実現のためには役者の力が必要となる。安置所のリーダーを演じる、主人公、西田敏行、この人しかいないような芝居を見せる。一体ずつ、生前と変わらぬ口調で優しく語りかける彼にとり、遺体とは「生きている人と同じように接する」対象なのだ。彼の立居振舞に「遺体」の作品としての総てが塗り込まれている。しかも、彼の接し方を目の当たりにし、周囲が徐々に変わる様が、作品の見せ場である。西田を始めとし、上手い役者を揃えたところが作品成功のミソだ。医師の佐藤浩市、歯科医の柳葉敏郎、市長の佐野史郎、僧侶の国村準、皆、存在感があり強固なアンサンブルを作り上げている。恐らく、役者が下手であったなら、この群集劇、空中分解であろう。特に、西田の役作り、上手い、の一言だ。本年度の主演男優賞の有力候補である。
実質的に安置所だけの、一杯のセットでの展開、その中に人間を動かす群集劇であり、安置所だけで芝居を作るところは、演出やシナリオの腕を感じさせる。遺体安置所という設定、西田の芝居、人物の絞り込み、総てにおいて内容が濃い。見る側は大震災の風化を阻げねばならぬ、という宿題を貰ったと言える。





(文中敬称略)


《了》


映像新聞2013年2月25日号掲載

2013年2月23日(土)より全国公開



中川洋吉・映画評論家