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ドキュメンタリー映画「美しいひと」
広島・長崎の原爆体験者を追う
語り継がれる戦争の真実

 原爆が広島、長崎に投下されたのは70年前の夏であった。両都市では、約21万人が死亡。外国人として、7万人の朝鮮人が被爆し、そのうち約20%の4万人が亡くなり、その数字の大きさに改めて驚かされる。長篇ドキュメンタリー映画「美しいひと」は、日本国内、および、海外での被爆者たちの声をすくい上げている。

外国人被爆者の現実

オランダ人被爆者
(C)S.Aプロダクション

  広島、長崎の原爆投下については既に多くが語られている。しかし、外国人被爆者についての記述は少ない。その歴史の谷間を埋める作業が東(あずま)志津監督の「美しいひと」である。彼女は、海外の被爆者に会うため、韓国、そして、オランダを訪ね、既に高齢で時間との闘いに入っている人々にカメラを向けた。



韓国、オランダへ

韓国福祉会館での集い
(C)S.Aプロダクション

 戦前、朝鮮は日本の植民地下にあり、多くの人々が労働力として強制連行されたり、貧しさのため仕事を求め日本へ渡ってきた。それらの人々が1945年の夏に大量に被爆している。オランダ人は、日本軍による戦争捕虜で、日本軍が制圧したインドネシアから長崎の捕虜収容所に連れてこられた。彼らは日本国内の炭鉱、造船所、軍需工場などで強制労働を強いられた。最近公開された同様の物語に、イギリス人戦争捕虜がタイ−ビルマの「泰緬鉄道」建設に使役された、「レイルウェイ 運命の旅路」がある。
長崎では戦争捕虜のうち195人が被爆、7人が死亡している。古くからの貿易港であった同地には在留外国人が多く、他に、数十人が被爆した。

 

長崎での原爆投下当日


龍智江子さん(左)の幼少時代
(C)S.Aプロダクション

 原爆投下の代表的写真が、冒頭シーンで示される。困惑し切ったモンペ姿の少女、その足元の黒こげになった母親の遺体。壮絶な地獄図だ。遺体は原爆により、頭は骸骨のようだ。広島の原爆投下時、1人の少年が、爆心地で背に赤子を背負う写真があるが、それに勝るとも劣らないインパクトが強い。この少女、龍知江子も被爆について証言している。



ハプチョン原爆被害者福祉会館



 撮影カメラは、韓国プサンから車で2時間の緑深い山の中の、ハプチョン原爆被害者福祉会館に足を踏み入れている。山間の赤いレンガ色の立派な建物が福祉会館で、十数人の老人たちが共同生活している。日本政府は、海外在住被爆者への補償をずっと拒否してきたが、両政府の話し合いで、35年後の1979年に被爆者援護がやっと始まり、1990年には、被害者福祉会館が設立された。この時は、日本政府から40億円が支払われた。日本政府から支払いは半世紀後であった。日本の経済的規模からすれば、40億円は微々たる額で、非常に遅れた補償であった。




在韓被爆者たち



 心打つ外国人被爆者との対話
同会館には高齢の被爆者が起居を共にしている。何故か女性が圧倒的に多い。入居者たちの多くは、日本での被爆後、韓国に戻り、辛酸をなめ、やっと現在まで生き延びたような人々だ。そのうちの1人の婦人は現在86歳であるが、3歳の時、一家で広島に渡り、朝鮮人用の簡易宿泊所を経営していたが、結婚5カ月で被爆、幸い爆心地に居らず、家族は難を逃れている。しかし、父や兄たちは大火傷を負った。彼女の一家は8人兄弟で、日本への残留か、韓国帰国かを迫られ、彼女だけが夫と帰国する。朝鮮人たちは、当時の疲弊した韓国に積極的に戻る意思が薄かった。
夫の死、女手での子育てと大変な苦労をし、後に福祉会館に入居。同じ被爆者との共同生活、みんなで仲良く暮らしたいと語り、彼女らは根っからの楽天的なのか、被爆や日本に対しての恨みや愚痴を口にしない。達観の境地なのだろうか。




望郷の念



 今年91歳の老婦人は、物心ついた時から広島に在住し、被爆した。その時、両親や兄弟の多くを亡くしたが、夫と妹と帰国、彼らもガンで死亡。被爆者にはガンで亡くなるケースが多いことが特徴的だ。幼い時から広島育ちの彼女は、両親は原爆で亡くなったが、自らの朝鮮人としての出自には全くこだわらなかった。自身を広島生まれの日本人思っていたようだ。原爆投下から数年後に韓国に帰国した。現在の彼女は、今でも広島を懐かしく思い出し、体が丈夫だったころは、毎年、広島を訪れ、同窓生や幼馴染と会っていた。彼女にとり広島は、教育を受け、青春時代を過ごした第2の故郷である。彼女からも、原爆手帳の発給を拒否していた日本政府に対する非難めいた言葉は一言も語られなかった。



「死にたい」と連発する老婦人



 他方、同じ福祉会館の居住者である、73歳の婦人は「早く死にたい」と頻繁に口にする。
7歳の時に被爆し、3か月後に帰国した広島生まれの彼女は、満足な治療も受けられず、戦後の混乱期を生きる。現在、この婦人に認知症が見られるが、今まで過ごした苦しい生活が想像できる。この彼女、現在の生きる環境から一刻も早く逃れたいとの思いが強く、「早く天国のお母さんと会いたい」の一語に胸がふさがる思いだ。


オランダの被爆者たち



 1941年開戦の太平洋戦争では、多くの連合軍兵士が日本軍の捕虜となった。その数は14万人とされる。捕虜たちは、日本各地へ送られ、強制労働につかされた。日本では、オランダ人の従軍慰安婦の存在は知られていたが、筆者は寡聞にも、同国捕虜が被爆した事実は本作により知った。
彼らを訪ね、東監督はオランダへ飛び、3人の被爆した元捕虜とのインタヴューを映像に収めた。88歳か92歳までの高齢者で、撮影後、1人は亡くなった。
1人は、「現在を生きていることが大切」と語る。2人目の被爆者は体験を積極的に多くの人々に語るようにしている。3人目の90歳の被爆者は認知症が進み、会話は首尾一貫しなくなっている。しかし、付添いの息子によれば、何度となく原爆投下の様子を家族に話し、その後、後遺症として彼にとり被爆がトラウマとなったとのこと。また、息子は被爆の証しとして、被爆手帳の発給に奔走し、亡くなる2年前にやっと手帳を取得した。このインタヴューの3週間後、彼は亡くなった。このオランダ人たちも、韓国の被爆者と同様、誰も責めることなく、生きている。ここには、澄み切った心の在り方が強く感じられる。


「美しい」の意味



 「美しいひと」のタイトル、東監督は、原爆を生き抜いた人、また、生き得ることの出来なかった人々を指すものとしている。原爆投下時の人々は、怒り、恨み、復讐を誰もが考えたに違いない。時を経るに従い、それらの感情は薄れ、段々と生きていることへの感謝へと変化したのではなかろうか。映像ポエムを思わす、ゆったりしたリズムで本作は展開されるが、そこにはむごさの対極にある透徹した優しさが宿っている。被爆を長いスパンで切り取れば「美しいひと」のようになるとの作家の思いと、被爆者の人生は我々に励ましを与えてくれるというつぶやきが感じ取れる。被爆の事実の対する多様的な見方の一つとして「美しいひと」がある。静かに凝視すべき作品である。


 



(文中敬称略)

《了》



5月31日(土)、東京・新宿「K's CINEMA」にてモーニングロードショー

映像新聞2014年5月26日掲載号より転載




中川洋吉・映画評論家