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『歓びのトスカーナ』
人間の個の尊重をうたう傑作
イタリア独特の人生への立ち向い方

 イタリア映画『歓びのトスカーナ』(パオロ・ヴィルズィ監督/2016年製作)は、タイトルからして、観光的恋愛作品と勘違いしそうだが、どうしてこれが人間の個の尊重をうたう大変な傑作である。そのうえ、イタリア人独特の人生への立ち向い方の描き方といい、映し出される濃厚な人と人との結びつきといい、生きることは悪くないと思わす力がある。
監督は近作『人間の値打ち』(13年)で日本でも紹介された、現代イタリアを代表するヴィルズィ。現在53歳の油の乗り切った中堅で、今作で11作目となる。



精神病院廃止

ベアトリーチェ(左)とドナテッラ(右)
(C)LOTUS 2015

 本題に入る前に、この作品の背景にあるイタリアの精神病院廃止に触れる。国家が精神病院を廃止した例は、世界的に見て同国しかない。元朝日新聞の医療ジャーナリストとして健筆を振った大熊一夫の解説から引用する。
イタリアでは1978年にバザリア法(精神科医フランコ・バザリアの名にちなむ)により精神病院廃絶を決め、99年3月に全土から精神病院が消える。ただし、刑法を犯した精神疾患の人々には「司法精神病院」が存在する。そして12万人の収容者は、精神科ケア付きのグループホームに移される。
本作の2人の女性主人公、ベアトリーチェ(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)とドナテッラ(ミカエラ・ラマッツォッティ)は、緑豊かな農場風グループホームに収容されている。
ここで重要なことは患者の扱い方だ。大熊一夫によれば、日本は監獄型治療装置で閉じ込めるが、イタリアでは、この拘禁型ではなく「人は誰しも狂気と理性を持つ存在」の理念に基づき、精神病患者を扱っている。この点が日本とイタリアの違いなのである。


躁(ソウ)のベアトリーチェ

逃避行の2人
(C)LOTUS 2015


 冒頭、1台の車が農園に入る。ここが精神病患者のグループホームである。このシーンで現在のイタリアの精神病対策がひと目で分かる。修道院が経営するこのホームでは、患者たちは思い思いに過ごす。
そこに、伯爵夫人と呼ばれる中年女性ベアトリーチェが、あたかもホームの主とばかりに、皆に指示を飛ばし闊歩(かっぽ)する。周囲は、まともに受け取らない。



2人の女性精神病患者の逃避行

ベアトリーチェ
(C)LOTUS 2015

 もう1人の入院患者は若いドナテッラだ。頭はぼさぼさ、タンクトップを直接まとい、飛び出した肌には刺青(いれずみ)だらけでガリガリの体、そして短パンと、美女が浮浪者のように汚しをかけている。演じるミカエラ・ラマッツォッティは、イタリアではソフィア・ローレンを継ぐ女優と高く評価される、トップクラスの存在でありながらの変身。役者根性が全身にみなぎる。
このコンビがホームをかき回し、2人の逃避へと発展するのが、物語の本筋である。
いつも陽気で、騒がしいベアトリーチェ、どうも裕福な家庭の子女らしい。根が明るい彼女は、新入りのドナテッラに関心を示し、日常茶飯事の愛情攻勢をかけるが、ドナテッラはよほどの心の傷を負ったのだろう、あまり反応しない。この理由付けもラストで明かされるが、この辺り、脚本の筆が立っている。
女王様然としたベアトリーチェ、打ちひしがれ、浮浪者寸前の格好のドナテッラ。2人は野外作業の時に脱走する。



無軌道な逃避行

ベアトリーチェ(右)とドナテッラ(左)
(C)LOTUS 2015

 この女性2人の逃避行こそ、魂の解放であり、作品の見せ場となっている。
まず、バスの終点であるショッピングセンターで降り、久しぶりの解放感に酔う2人は、そこで欲しいものを手に取り逃走する。もちろん現金を持たない彼女たちの万引である。
次いで、好き者風のオヤジの車でヒッチハイク。2人をプロの売春婦と踏んだ彼は、ホテルに連れ込もうとするが、2人はすきを見て彼の車を奪って逃走。女性2人に、してやられたオヤジはカンカン。
この開放感を堪能する2人の生き生きした姿は目にまぶしい。調子に乗り過ぎ、ドナテッラは車にはねられ、病院送りとなる。この辺りから2人の過去が徐々に明かされ、見る側は物語に引き込まれる。



それぞれの家庭環境

ベアトリーチェ
(C)LOTUS 2015

 ドナテッラの予期せぬ入院で、1人となったベアトリーチェは、生き別れた息子のことしか頭にないドナテッラのために、彼の消息をネットで検索する。熱心な作業の末に、大体の居所をつかむベアトリーチェは、入院中のドナテッラに連絡する。
病院では、父親が見舞に訪れ久しぶりに再会を果たす。彼女は幼い時から父親になつき、今も「信頼している」と口にする。彼女にとって父親こそ誇りである。
バーのピアノ弾きの父親は善良な人物で、彼女にとりピアノを弾ける父が、幼いころからの自慢の種。ホロリとさせる話だ。母親は、遺産狙いで金持ちの老人の看護をし、娘には無関心。そんなドナテッラの元にベアトリーチェから息子の件での通報がある。早速、ドナテッラは病院を抜け出す。


息子との対面

 この段階でドナテッラの病気の因が判明する。彼女は若くして家を飛び出し、クラブ勤めをする。その美ぼうでオーナーの関心を引き、関係を結び、男児を出産するが、お決まりの愛情劇で彼女は捨てられ、赤児共々川へ身投げするが、2人は救助されてしまう。男児は役所により養子に出され、これが原因でドナテッラの精神状態がおかしくなる。
病院を抜け出した彼女は、息子の養父母を訪れるが、会わせてもらえず、垣根の外から大きくなった息子と遠目ながらの対面をする。



ベアトリーチェの場合

 一方、ベアトリーチェは、離婚した元夫である金持ちの弁護士の元を訪れ、周囲を驚かす。能弁で、口から出まかせを連発するいつもの調子。元夫を色仕掛けでベッドイン、眠っている彼の金庫から金品を頂戴し、そのまま遁(とん)走する。
元々裕福な彼女は、合流するドナテッラを高級レストランに強引に引っ張り込み、シャンパンと海鮮料理で舌鼓を打つ。ここも、ベアトリーチェの手八丁口八丁での無銭飲食。痛快なアナーキーぶりである。


2人の心境の吐露

 若いドナテッラは、息子を取り上げられ、精神がおかしくなる。ベアトリーチェは、ヤクザまがいの男性と親密になるが、彼に捨てられ、良家の恥とばかりに裕福な実家からも相手にされない。ドナテッラの鬱(うつ)、ベアトリーチェの虚言症、その原因は、人に信頼されず裏切られる「寂しさ」からきている。
ここから、2点のメッセージが発せられる。まず、どんな健常者も精神に異常をきたすことは、特別なことではないということ、もう1つ、誰もが狂人となる可能性を抱え込み生きていることである。極めて人間本位の考え方で、ホームの職員の献身的な態度も、この考えから来ている。


幸せになる

 本作に見られる、不幸な過去を抱える2人の女性には幸せになる、あるいは、なろうとする魂があり、この点が本作の最大のインパクトと解釈できる。そして、イタリア映画の底流とも言える「生きる歓び」が2人の行動から読み取れる。
日本の精神病院の徹底した管理方式と正反対の、個の自由を最大限に尊重するイタリアとの違いが、社会的背景として重要な位置を占める。
人間の描き方、社会制度の在り方の描き方にコクがあり、本作の強さとなっている。今年度の傑作の1本であることは間違いない。




(文中敬称略)

《了》

7月8日からシネスイッチ銀座ほか全国順次公開

映像新聞2017年7月3日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家