このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



『マルリナの明日』
マカロニ・ウェスタン風の痛快復讐劇
未亡人と強盗団の闘い描く
インドネシア女性監督の第3作

 映画はさまざまな発想から生まれるが、こんなやり口もあるのかと、思わず感心する場合がある。今回取り上げる作品『マルリナの明日』(2017年/モーリー・スリヤ監督、インドネシア製作、95分/2017年東京フィルメックス最優秀作品賞、17年カンヌ国際映画祭監督週間正式出品)もその1つ。実に大胆なマカロニ・ウェスタン(イタリア製西部劇を表す和製英語)の"いただき"痛快復讐劇である。

 舞台はインドネシアのスンバ島。東ティモールとほぼ隣り合わせの島嶼(とうしょ)郡の1つで、オーストラリアの北に位置する。物語の舞台は、海を見下ろす丘陵と広大な草原のあるこの小さな島で、ここから西部劇の発想を得る想像力はすごい。

馬上のマルリナ 
(C)2017 CINESURYA - KANINGA PICTURES - SHASHA & CO PRODUCTION - ASTRO
SHAW ALL RIGHTS RESERVED ※以下同様

強盗の首領を斬るマルリナ 

マルリナ(左)とミイラ化した夫

警察の取り調べ

殺人の瞬間

トラック運転手(左)とマルリナ

妊婦ノヴィ 

マカロニ・ウェスタン

 1960年代から70年代前半にイタリアで生まれた西部劇、マカロニ・ウェスタンは、多分にキワモノ臭さがあり、そこがめっぽう面白い。マカロニと良いながら、ユーゴ(当時)やスペインで撮影されている。本場米国西部劇との大きな違いは、主人公が清廉潔白の人士ではなく、いささか悪党風なところだ。
具体的には、葉巻をくわえケープをまとった、うさんくさいヒーローを演じる、まだ有名になる前のクリント・イーストウッドを思い浮かべればよい。その代表作として、クリント・イーストウッド主演、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』(64年)が挙げられる。
そして、この西部劇の売りは、映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネの口笛を使った、一度聴いたら耳から離れないテーマ曲である。
マカロニ・ウェスタンのパロディーが『マルリナの明日』であり、物語の荒唐無稽(むけい)さが映画的感興をそそる。  
  


構成

 36歳の女性監督モーリー・スリヤの第3作は、大変分かりやすく構成されている。時系列で物語がシンプルな上、善玉・悪玉がはっきりしている。内容的には4部構成で、第1幕「強盗団」、第2幕「旅」、第3幕「自首」、第4幕「出産」となっている。
思い入れや前衛的手法を排除し、娯楽映画的要素1本で押すあたり、観客をはっきりと意識していることは読んでとれる。ここがスリヤ監督の狙いだ。
そして、東南アジア映画らしく、超常現象を入れ込んでいる。幽霊、妖怪の登場である。この現象、タイやフィリピン映画でも顔をのぞかせることが多い。神への信仰の屈折した状態であろうか。



スハルト体制

 
物語は、未亡人と強盗団の闘いを骨子としている。そして、女性が男性をぶちのめすところが作品の芯(しん)である。インドネシアは、長い間スハルト独裁政権(1967−98年)が続き、多くの反政府側の人々が殺され(その数は100万人と言われている)、女性が性暴力を受けた時代が続いた。
いわゆる恐怖政治体制であり、民兵組織の暴力支配が体制の保全を図った。当時の状況を知る上で、『アクト・オヴ・キリング』(2012年/ジョシュア・オッペンハイマー監督、英・デンマーク)に詳しい。
インドネシア社会は、この映画作品のように、女性は常に男性からの性暴力の脅威にさらされ、人権どころの話ではなかった。なぜ日本のメディアは、この人権を無視したスハルト体制について触れなかったのであろうか。インドネシアはバリ観光だけではないはずだ。



強盗団

 スンバ島の内陸部は、赤土の上に草原が広がり、西部劇の舞台としては悪くない。そこの丘の上の一軒家へ向かって1台のオートバイが疾走し、ほかに人影も車両も目に入らない。オートバイの男は家に着くと「入るぞ」とずかずか上がり込む。まるでわが家に戻ったように。そして居間にどっかり座り、コーヒーを命じる。
受けるのは1人住まいの家の主で、夫と子供を失った美人の未亡人マルリナだ。亭主のように振る舞う中年男こそ、強盗団の首領マルクスであり、彼女に子分たちの食事を用意させる。作るのは鶏のスープで、どうやらこれがごちそうのようだ。
やがて子分の4人がトラックでやって来て、居間で「飯はまだか」と大声で注文をつける。その上、彼らはみだらな話を男同士で語り、悦に入っている。未亡人マルリナは恐る恐る料理の支度を始める。奥では首領のマルクスが1人部屋で休んでいる。
彼ら強盗団は、トラックを乗りつけ、家畜、現金、家財を奪い去る組織犯で、島の中を荒らし回っている。
鶏のスープが出来上がり食事となるが、4人の男たちはバタバタと倒れ込む。マルリナが丸く赤い毒薬を料理に仕込んでおいたのだ。隣の部屋のマルクスはマルリナを呼びつけ、強姦しようと彼女を押さえつける。殺されるよりはましと、意を決した彼女は男の要求を入れ、そして油断した男に馬乗りになり、後手に隠した刀で首をはねる。
女性の裸は一切見せず、着衣のままの引きのシーンであるが、その生々しい迫力は圧倒的である。このような際どい場面、女性監督は、時として非常にドギツク描く場合があるが、本作も例外ではない。



自首

 マルリナの次なる行動は、殺人の正当性を主張することである。首領の首を片手に警察署のある隣村まで、島の唯一の交通手段たる乗り合いトラックに乗りこむ。
そこで、顔見知りの若いノヴィから同行を頼み込まれ、渋々女性2人旅となる。彼女は身重である。その彼女たちの後からは、首のない幽霊が歩いてついてくる。超常現象だ。
草木もまばらな赤茶けた草原、いかにも西部劇らしい雰囲気を醸し出す。そして、音楽も口笛の旋律に似た独特の響きが画面に流れる。そこへ強盗団の残党2人がトラックを追いかけてくるが、身を隠し、彼らを見送る。
徒歩のマルリナとノヴィは、草原に放たれている馬を見付け、町を目指す。マルリナの乗馬姿、これぞ西部劇の極みであり、格好がいい。



警察

 妊婦ノヴィと馬1頭を連れ、2人はまるで映画のセットのたたずまいのような町に到着する。次いで食堂に立ち寄れば、死んだ娘と同じ年ごろの幼い少女と出会う。その彼女に親近感を覚えたマルリナは、首を入れた木箱を彼女に託し、警察に自首する。
この警察署、警官たちは卓球に興じ、なかなか取り調べを始めない。南国特有ののんびりした横着さにイラつくマルリナ。事情聴取が始まれば、現場検証用の車がないとか、医療検査用具がないとか、警官はまるでやる気を見せない。
業(ごう)を煮やした彼女は、警察署を飛び出る。警察も厄介払いが出来たとばかりの風情。とにかく、南国特有のいい加減さだ。このあたり、お国ぶりがのぞけて興味深い。




出産

 警察の、強姦事件の1つや2つくらいにかまっていられるかのような無関心さに立腹し、マルリナは出産間近なノヴィを連れて家に戻ると、強盗団の片割れで、若いフランツが首領の首を取り戻しに追ってくる。
隣室では、マルリナがフランツに犯されそうになり、助けを求める。動くことさえままならないノヴィだが、刀を片手に立ち上がり、やっとのことで後ろから、フランツの首を仕留める。その直後、新しい生命が誕生する。
かなり荒っぽい活劇だが、スリヤ監督は、女性同士の連帯をノヴィの赤ん坊誕生に託し、強調している。女権の弱いインドネシアにおける一筋の希望を語っているのだ。
マカロニ・ウェスタンの換骨奪胎であり、厚かましい"いただき"ともとれるが、スリヤ監督の意図はよく理解できる。壮絶な復讐劇であり、女性に留飲を下げさせる強い思いがある。破天荒な快作で、間違いなく楽しめる作品である。





(文中敬称略)

《了》

5月18日から渋谷・ユーロスペースにてロードショー、全国順次公開

映像新聞2019年5月6日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家