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『彼女は夜明けに夢をみる』
証言で構成する傑作ドキュメンタリー
イランの少女更生施設の実態

 イランのドキュメンタリー『少女は夜明けに夢をみる』(2016年/メヘルダード・オスコウイ監督、イラン、76分)が近々公開される。一見少女マンガの映画化と見まがうタイトルだが、内容はなかなかどうしての傑作であり、今年の洋画ベストテン入りは固いと踏んでいる。英題は「Starless Dreams〈星のない夢〉」で、この方が内容をよく表わしている。巨匠がひしめくイラン映画界だが、わが国ではイランのドキュメンタリー作家は知られておらず、貴重な1本である。

 
物語の舞台は、イランの少女更生施設、しかし日本で想像する刑務所とは様子がかなり異なる。自由度が高く、すべてにおいて管理したがる日本の行政とは趣きが違う。
最初のシーンで戸惑う。黒いインクと手、何であろうか―。それは指紋の押印であり、最後に真っ黒になった手を洗面所で洗う。相当量のインクが手に、指に染みついている。施設入所者である少女たちへの最初の洗礼である。
そして、彼女たちは「隔離区域」へと吸い込まれ、外界と遮断される。その後、施設内の物語が始まる。出所の日時は事前に決まっておらず、両親、親戚の迎え次第であり、もちろん裁判はあって無きがごとしのようだ。
一歩「隔離区域」に入れば、そこは広い空間で壁際に寝台が人数分置かれており、少女たちは嫌でも集団生活を強いられる。そこで彼女たちは悲惨な環境ではなく、むしろ自由に話す機会に恵まれ、そこから少女たちの絆(きずな)が生まれる。
女性、ましてや年少者である少女たちは、家族や親せきの抑制を離れて、自分らの思いを口にする。彼女たちの集団生活は暗いイメージだけではなく、むしろ、気持ちをさらけ出す解放の場である。

ハーテレ     (C)Oskouei Film Production ※以下同様

マスーメ(右)名なし(左)

ハーテレ 出所前の控室で

宗教者の話を聞く少女たち

後ろ姿のハーテレ

651(左)、アヴァ(右)

雪合戦

ハーテレとその家族

食事シーン

雪の暗さ

 季節は、新年前後と設定される。太陽がさんさんと輝き、豊富な果物が山積みされる大都会とは異なる、もう1つのイランの姿が現れる。一面雪で覆われ、山岳地方のせいか、雪は春まで残る寒々とした光景のみだ。
しかし、収容されている少女によっては経験のない雪景色に大はしゃぎ。そして全員で「幸せだからって 不幸な私を笑わないで 私だって若かったし 恋もしたのよ 年老いて人生に 疲れてしまった」と絶望的な歌を快活に歌う。若い少女たちの現在の気分をぶつけているようだ。  
  


少女たち

 罪を犯さなければならない理由
収容されている少女たちは、それぞれの人生の負の部分をおっている。両親から絶え間ない暴力にさらされ、今まで生きてきた。10代で既に出産した少女もいる。
ここで1つ重大な事実がある。ほとんどの少女が性的暴行を受けていることだ。それが12歳のころから始まり、彼女たちにとり人生の暗転が始まる。イスラム男性社会の犠牲者であり、家庭の枠から滑り落ち収容されている少女たちだ。イスラム社会の性意識、男性優位の暴力支配、そして少女の学校教育の問題がそこに集約されている。
本作では、オスコウイ監督はあえて社会問題としての女権を取り上げず、少女たちとの対話から問題を浮彫りにさせる手法を取っている。彼は、少女それぞれの個人的体験に耳を傾け、問題の本質に迫る。



ハーテレの場合

 
叔父による性的虐待がきっかけで家を飛び出し、浮浪罪で収容されている少女ハーテレ。入所当時は生きる希望を失し、うつ病気味であった。
この少女収容施設に入所する大部分の少女は、身内である叔父から性的虐待を受けるケースが圧倒的に多く、母親は見て見ぬふりを決め込む。圧倒的多数の女性は収入のない専業主婦たちで、夫の暴力の対象となり、積極的に子供を庇(かば)う余裕もない。ましてや少女たちへの暴力は、うやむやのままとなる。
女性の社会進出が後進的であるインドの例と全く同様で、つくづく女権の弱さを感じる。一言でいえば、少女を守る体制が皆無の状態であり、少女たちの居場所や発言権は家庭内にはない。その点を、オスコウイ監督は鋭く指摘している。



ガザ―ルの場合

 性的虐待以外に、結婚し15歳で出産した少女ガザールもいる。撮影時は17歳で、最後に子供と会ったのは7カ月前である。彼女の場合は子供を置いて収容されたが、実際には収容所内で生まれる赤子もおり、万事規則でのがんじがらめではないようだ。
犯歴は麻薬の売買で、亭主から売人になることを強要されるのである。彼女自身、指に多くの傷跡があり、それは自傷行為の結果だ。イラン社会の事情は作品で見る範囲しか理解できぬが、簡単にクスリが手に入るようだ。手っ取り早い稼ぎとして、大部分の少女たちはクスリを売ったり、使用したりする。また、身内や亭主から、売春を強要されるケースも目につく。



ソマイエの場合

 ソマイエの犯歴がすごい。少女たちの中では物静かでしっかりした性格で、同房の少女たちに気配りをする人物である。彼女の罪状は、父親がイスを振り上げ母親を殺そうとしたことに端を発している。出来た人柄の彼女は、母、姉と共謀し、父親を殺(あや)めた。父親は娘に売春させ、クスリを買うような男性で、彼女たちの思い余ったうえでの犯行である。
ソマイエは、四方の壁から痛みが染み出ると訴える。これ以上の苦痛は受け入れられない。家庭で辛い日々を送っていた彼女、周囲は同じようにやむなく犯罪に走った少女たちで、互いの痛みを共有できる場が施設であるとはっきり述べている。
彼女の発言を聞くと、今までどれほどの苦痛を受け、我慢を強いられてきたかの過程が分かり、彼女たちの境遇と痛みを思わざるをえない。ソマイエは今後、死刑になるのか、作中でははっきりと示されない。
彼女たちは、大概が身内の者から性的虐待を受け、売春を強要され、クスリの売人にさせられる共通点を持っている。イラン社会の負の部分を一心に背負わされた形だ。オスコウイ監督は、彼女たちと強い信頼関係を結び、少女たちが今まで語らなかった部分を引き出している。



核心に迫る手法

 オスコウイ監督は、イランを代表するドキュメンタリー監督。1969年生まれで今年50歳の精かんな印象を与える男性だ。しかし、少女たちと辛抱強く会話を続け、彼女たちの信頼を引き出す、押し付けないタイプの人間と見受けた。
少女たちの過去を、撮る側の感情、思い入れを排除し、核心に迫る手法で、これが成功している。
若い時にフレデリック・ワイズマン(米国のドキュメンタリー映画監督)のワークショップで学び、ワイズマンに称賛されたことがある。若きオスコウイ監督はその時、「物語の地理的要素は最小限に抑えている」と自己の信条を語っている。彼の言わんとするところは、「地理的要素」を狭めることであり、一点から凝視する重要性を挙げている。本作でも、彼の流儀通り、カメラは施設から一歩も外へ出ていないことでもよく分かる。
イラン社会の現実、女性が負わされる不幸を、きっちりと背景に収めながら、正面切って主張せず、少女たちの証言で語ってみせるあたり、並みの手腕ではない。一見に値する作品だ。






(文中敬称略)

《了》

11月2日から東京、岩波ホールほか全国順次上映

映像新聞2019年10月14日掲載号より転載

中川洋吉・映画評論家