このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



『巡礼の約束』
チベット人の死生観を柱に描く
深い宗教と人間との結びつき

 チベットを舞台とする『巡礼の約束』(2018年/ソンタルジャ監督、中国、109分)が封切られる。チベットといっても、現在は中国人がどんどん進出し、同地を実効支配するのが現状である。もちろん歴史あるチベットは健在であるが、最高指導者ダライ・ラマのインド亡命も問題の大きさを物語っている。しかし本作は、あくまでチベットにこだわり、チベット人の生き方、死生観を作品の太い柱としている。

 
監督も、主演男優、作品の舞台もチベットで、チベット人によるチベット作品である。そして、根底にはチベット仏教の教えが流れている。日常の立ち居振る舞いが、すべて宗教により取り決められ、人々はその教えに従い生きる様子が汲み取れる。
これほど生活と宗教が結びつく例も珍しい。そして、彼らの行動の極みが「五体投地(ごたいとうち=仏教において最も丁寧な礼拝方法)」によるラサ巡礼である。

ロルジェ(左)とウォマ(右)       (C)GARUDA FILM ※以下同様

ラサのポタラ宮

「五体投地」の装いのウォマ(左)

巡礼するロルジェとノルウ

心を通わせる2人

草原のロルジェ夫妻とノルウ

ロルジェ家

妻の泣き声

 隣り合わせで寝る夫ロルジェ(ヨンジョンジャ=チベットで有名な歌手でもある)と妻ウォマ(ニマソンソン=四川省、チベット地域生まれのチベット人だが、中国で演劇を学び、現在は中国で活躍)。明け方、妻のウォマがシクシク泣いていることに気付く。ロルジェには理由が全く分からない。
妻が夢をみた朝、夫に頼み火をおこし、供養をする。チベットの宗教の教えにのっとっているらしいが、何のためかはっきりしない。
彼女は先夫が病没、6年前にロルジェと再婚し、ロルジェの父と草原での3人暮らし。彼女の嗚咽(おえつ)の理由が徐々に明らかになる。冒頭に、大きな伏線をぶつけ、その絡んだ糸を1つひとつほどき、ハナシが展開される。
ウォマは病院へ行く。医師は、家族と一緒ではないのかと聞くが、ウォマは無言のまま。帰宅し夫には「何もなかった」と話すが、「五体投地でラサへ巡礼に行く」と決心を伝える。
夫ロルジェは混乱するばかり。理由も分からず、体調の悪そうな妻を巡礼に出すことは無理と必死に止めるが、ウォマの決心は固い。  
  


ウォマと子の別れ

 ウォマは前夫との死別後、ロルジェと再婚するものの、体が弱く病院通い。そのため1人息子のノルウを、やむなくウォマの実家の祖父母に預ける。ウォマは「五体投地」でラサへ巡礼に行くため、ウォマ宅はロルジェと彼の老父との2人暮らしとなる。
一方、息子のノルウは、自分が捨てられたとの思いが強く、巡礼前に祖父母宅の彼に会いに来たウォマとの面会を彼は拒否する。しかし、母親からの手土産のおもちゃは、戸越しに受け取る。死期が近いことを悟るウォマは、ひと目だけでも息子の顔を見ることを切望するが、彼女は傷心のまま旅に出る。
自分は捨てられたと思うノルウは、周囲の人に対しても心を開かない。この別れ、見ている方が辛くなる。ただでさえ、草原で暮らす人たちは、心を開く相手が周りにおらず、いっそう別れが辛い。
病身で、何かに取りつかれたようなウォマの旅は始まる。妻を心配し後を追う夫ロルジェは、ラサ巡礼を思いとどまるよう説得するが、一度決めたことは決して変えないウォマは、夫の説得を受け入れない。この夫婦の別れも悲痛そのものだ。



「五体投地」の巡礼

 
ラサ巡礼とは、聖地ラサへの徒歩行で、「五体投地」をしながら1日5`bほど進み、到着までに約1年かかる。巡礼者は、羊皮の前掛けを身に着け、手にはゲタの様な板切れを付けるいでたちで、四国のお遍路さんと似ている。
四国八十八カ所巡りでは、最近はバスの団体巡礼者も見受けられるが、チベットでは徒歩が基本である。一般的に草原に生きるチベット人は徒歩で移動するが、その忍耐力には驚かされる。
「五体投地」の巡礼者は、拍手のように手にはめた板を3回叩き、3歩歩き、体を地面に投げ伏す。3歩ごと大地に身を投げ出す行為を絶え間なく続け、精神も体力も試される。大変な苦行で、元来、仏教の儀式であったものが、一般の人々もするようになったと考えられる。
日本の仏教(中国から到来)の儀式の一部にもこの「五体投地」はあるが、チベット方式はその比ではない。「五体投地」に関し、一生に2,3度繰り返せば、お迎えがやってくるそうで、どのように生活の糧を得ているのかが不思議である。本作でも、近隣の人々がお茶を差し入れるところなど、お遍路そっくりである。



弟の迎え

 聖地に向かう病弱の母とそれを負う父子
旅の間、ロルジェの弟が息子ノルウを母親の元へ連れてくる。2人の顔合わせが済めば、弟は幼いノルウを連れ帰る心積りである。それはウォマの健康状態を心配しての配慮であった。しかし、ラサ巡礼に強くこだわるウォマの様子を見て、弟は単独で戻る。
一方、ウォマと息子ノルウはラサへの巡礼を望み、夫ロルジェも加わり、結果的に3人ともにラサへの巡礼を続ける。妻の体が心配なロジェは、できれば巡礼をしたくない。ノルウは離れて暮らす母親と一緒にいることを強く望む。
体調がますます悪くなるウォマは、ラサ行きの理由をやっと夫に語る。人生の末期を悟った彼女は、この段階でラサ巡礼を断念。しかし、近くの大都市成都の大病院への入院は拒む。体中に管がつながった状態で死にたくないと意地を張る。ノルウもウォマも相当な強情っぱりで、周囲の手を焼かせてばかりである。



ウォマの意地

 ウォマは、夢の中に出てくる、何者か分からぬ男からラサ巡礼を誘われる。余命わずかの彼女は、その夢の中の男と共に行動する決心をする。ウォマにとり、ラサ巡礼が自らの魂の救いとなると確信したに違いない。事程左様(ことほどさよう)に、ラサ巡礼はチベット人にとり救済の意味を持つ。
ウォマにとって、もう一つのラサ巡礼の動機は、病死した先夫の遺骨で作った、懐に入るほどの小さな仏像を、聖地の寺で供養するためである。とにかくチベット人は、仏教の教えをかたくなに守る様子がはっきりと見える。
ウォマ亡き後、ロルジェとノルウは2人で「五体投地」の旅を続ける。ウォマの遺志を自ら買って出たのである。チベット教は、彼らにとって生きる規範なのだ。
このノルウとロルジェの2人には血のつながりはないが、チベット人の心はつながることをソンタルジャ監督は淡々と描いて見せる。
人影がなく、羊の群れが点在するチベットの大草原の圧倒的な美しさ、特に夕暮れは筆舌に尽くしがたく、宗教、大自然、そして、お遍路にも共通する人々の絆(きずな)、地に足がついた本物のチベット人の生き様が淡々と繰り広げられる。
このような、この世のものと思えない大自然を目の当たりに出来るのは、映画の効用である。近くて遠いチベットの人々の暮しを間近に知れるのは、映画の媒介だ。宗教と人間との結びつきを改めて思い起こさせる。






(文中敬称略)

《了》

2020年2月8日(土)より岩波ホールほか全国順次ロードショー

映像新聞2020年1月27日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家