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『夜明け前のうた 消された沖縄の障害者』
精神障害者を監視拘留する過去の制度
個人的自由を奪う悲惨な措置
残された写真を基に現地で取材

 このようなことが起きていいのか。胸塞がる思いで見た1作が『夜明けのうた 消された沖縄の障害者』(2020年/原義和監督、ドキュメンタリー、97分/以下『夜明け前のうた』)である。舞台は沖縄、時代は沖縄返還(沖縄本土復帰)の1972年前後で、「私宅監置」を扱っている。

私宅監置小屋跡  (C)2020 原 義和  ※以下同様

白い女性の舞い

私宅監置小屋跡での讃美歌を歌う人々

小屋の中

沖縄の海

写真についての聞き取り取材

精神障害者を隔離

 「私宅監置」とは聞きなれない言葉だ。その意味するところは、個人宅での精神障害者を監視拘留する制度のことである。これは、1900年の法律「精神病者監護法」に基づき精神障害者を小屋などに隔離してきた、かつての国家制度であり、社会の安定を守ることを口実としている。
精神障害とされた人間の個人的自由を奪うもので、警察や保健所の恣意(しい)的判断によっている。正式な拘留令状、公的な調査や検証はせず、裁判、拘留期限も定められていない、基本的人権無視の超方規的措置である。1950年に本土では禁止になった制度だが、沖縄だけは、1972年の米軍の施政権が日本に返還されるまで残存した。
沖縄の施政権返還は、日米地位協定同様、問題が大変多い。例えば、核持ち込み秘密協定など。この施政権返還の中で、「私宅監置」について触れられておらず、無視された形となっている。これは日本政府の問題であり、精神障害者の救済について行政の関心が全くなかったと推測される。
本作『夜明け前のうた』は、「私宅監置」され、名前を消された多くの人の言い分を、いかにぶつけるかを製作の目的としている。 
  


事の発端

 あるとき見た1枚の写真が、製作の発端となる。2011年11月に原義和監督は、沖縄在住の精神科医、吉川武彦医師のインタビューの際に、ファイルに入っていた一連のポジフィルム(ポジ)を見せられる。22人の男女が、掘っ立て小屋(中にはコンクリート製)に家畜のように押し込まれている写真だ。人の住む所とはとても思えない。
この写真を契機として、原義和監督のドキュメンタリーの製作は始まった。インタビューに答え、当時、琉球大学勤務の吉川武彦医師は、これらの、貴重だが悲惨であるポジの出どころを語った。ポジの撮影の多くは、1966年に日本政府が、沖縄の精神障害の調査のため派遣された精神科医、岡庭武医師の手によるものであった。
この岡庭武医師のポジは、一時所在不明であったが、ある時、琉球大学勤務の先述、吉川武彦医師が岡庭武医師から譲り受けたようで、2011年、原義和監督は吉川武彦医師とのインタビューの折、これらのポジの存在を知った経緯がある。
『夜明け前のうた』は、これらのポジを基に作られた。ほかに、警察と結核患者を主として担当した保健所にもリストが存在したが、1972年の施政権返還以来既に約50年を経た現在、追跡は困難であった。
監置者の状況を知る上で唯一の頼りは、岡庭武医師の撮った二十数枚のポジで、それが最大の決め手となった。当然のことながら、監置者は死去し、現在は子供、孫の世代へと変わり、彼らのその後について調べることは不可能に近い。
それを原義和監督は、ポジを基におのおのの監置所のあった場所へ赴き、ゆかりの人々を尋ね回った。足と気力で稼いだ、原義和監督の力と熱意のなせる業としか言いようがない。



監置者を象徴する、白い女性

 
原義和監督は画面の構成上、「白い女性」をフィクショナルに登場させ、監置者の姿を強調している。冒頭、沖縄の美しい海の断崖に白のお面で白衣裳の女性にダンスを踊らせる。ちょうど、1人の白いマスクをつけた女性監置者の再来を思わす映像である。そこから次の忌まわしい場面へと移り、現実へと引き戻される。
撮影場所は、草ぼうぼうたる茂みの奥にある木組の監置小屋。そこに閉じ込められた白い女性の名前は「ふじさん」で、親が「藤」のように美しい娘になるようにとの思いで付けたという。
彼女は恋仲の男性との結婚を周囲の反対で認められず、精神に異常をきたし、親は世間体をおもんばかり小屋に閉じ込めた。これはハンセン病患者の扱いと極似している。
メインの「ふじさん」を監置小屋で実際に見た、ポジの撮影者である岡庭武医師の証言によれば、ヤギ小屋より粗末で、尿や便は垂れ流し。2畳にも満たない空間での悪臭がひどく「阿鼻叫喚(あびきょうかん)」という言葉に例えている。
写真の撮影者の岡庭武医師、それを保管した吉川武彦医師は既に亡くなっている。



監置小屋の実態

 原義和監督は、監置小屋に入れられている収容者の写真を手掛かりに出身地を訪れ、ほとんど生存していない、彼らを知る人を尋ね歩く。そうした気の遠くなる作業で、関係者を探し出した。
彼の足跡は広く、作中示されているだけでも、宮古島、その周辺の小島、竹富島、そしてアフリカのコートジボワールと、広範囲にわたっている。
小屋は、木の枝を積み重ねたものが多く、それ以外にコンクリート造りで鉄の門扉と、まるで刑務所の独房のような本格的なものも多数存在している。それも人家から目立たぬ、森や茂みの中にあり、家族が必死に監置所の存在を隠していたことがよく分かる。
収容された監置者は、狭い空間に横たわり、口もきかず、絶望の状態であった。身内の恥とばかりに、狭いところに閉じ込めることは、昔なら座敷牢(ざしきろう)であろう。
「私宅監置所」入りの決定権は警察が握り、生かさず、殺さず、食事の世話は家族がしていた様子がうかがわれる。もし、監置所が人目の付かぬ遠くにあれば、やはり家族は世話をしていたのであろうか。政府が面倒を見る訳でなく、胸の痛む話だ。
精神障害者といっても、時折、発作を起こし暴れる程度で、他人(ひと)に迷惑を及ぼす存在ではなったようだ。大体、1人の監置期間は6年くらいで、一生閉じ込めておいたわけではない。
「ふじさん」の例を取るならば、1960年末に監置所から出て、沖縄の精神科病院に入院する。その後、八重山の病院で過ごした後、やっと故郷に戻る。体(てい)の良い、たらい回しである。最終的には特養ホームに入る。以前、沖縄には精神医療施設がなく、やむを得ず行政は世話を身内に押し付けた様子が見て取れる。
ここでも国は、戦後沖縄を見殺しにしている。太平洋戦争、沖縄戦、そして精神医療の遅れの面で。
ここで挙げた精神障害者は、国、家族から見捨てられ、絶望の中を生きていたと想像できる。彼らは一点を凝視し、徐々に言葉を失うことが多かった。しかし、彼らには歌があった。まず、讃美歌『いつくしみ深き』、そして「ふじさん」がいつも歌っていた『われは海の子』。歌うことで絶望から少しでも逃れたい、彼らの心情が垣間見える。
本作の中には、ほかに《僕らはみんな生きている、生きているから…》という歌詞で始まるおなじみの歌『手のひらを太陽に』や『長崎の鐘』も歌われている。歌うことこそ、彼らの安らぎであったに違いない。
身銭を切り、本作を製作した、監督の原義和は名古屋出身で今年52歳。フリーのTVディレクターである彼は、社会的素材を多く取り上げるドキュメンタリー作家で、過去に『戦場のうた〜元慰安婦の胸痛む現実と歴史』(2013年琉球放送/14年日本民間放送連盟賞 テレビ報道番組最優秀賞)、『インドネシアの戦時性暴力』(15年7月、TBS報道特集/第53回ギャラクシー賞奨励賞)、『消された精神障害者』(18年Eテレ、ハートネットTV/貧困ジャーナリズム賞2018)などを製作している。




(文中敬称略)

《了》

3月20日より、東京K'cinemaで先行上映、4月より沖縄桜坂劇場ほか全国順次公開

映像新聞
2021年3月8日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家