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『モロッコ、彼女たちの朝』
イスラム社会の女性問題に鋭く切り込む
監督自身の体験に基づく脚本
日本初公開のモロッコ長編作品

 日本人にとりなじみ深い「モロッコ」とは、同国の都市を舞台にした名画『カサブランカ』(1942年/イングリッド・バーグマン、ハンフリー・ボガード主演、米国)ではなかろうか。今回紹介する作品が、日本で初公開となるモロッコの長編映画とは驚きだ。それが『モロッコ、彼女たちの朝』(2019年/マリヤム・トゥザニ監督・脚本、モロッコ・フランス・ベルギー製作、アラビア語、101分、長編初監督作品)である。一見、女性の交友物語と思わすが、実際はイスラム社会の女性の地位の低さに舌鋒(ぜつぼう)鋭く切り込む作品だ。
 
なぜ、長い間、モロッコ映画が日本に紹介されなかったのか。それには、モロッコ、チュニジア、アルジェリア(総称:マグレブ諸国)がフランス植民地であり、多くのマグレブ人の移民の存在がある。
現在、フランスでは約500万人のマグレブ移民がいる。戦前から貧しい生活環境を逃れ、より良い生活を求めて宗主国フランスへ移民した歴史抜きには語れない。入植後の彼らは、家族をフランスに呼び寄せ、大多数はフランス人として暮らしている。彼らは俗に「ブァール」(ARABの逆読み)と呼ばれる。そして、多くのマグレブ人がフランス映画界で活躍している。
彼らは現在、フランスで一番勢いのある映画グループとされている。ちょうど、ドイツ映画界で社会性のある作品を製作し続ける、トルコ移民出身のファティ・アキン監督のような存在だ。その作品の多くがフランスのプロダクションの手で製作され、フランス商品として配給されるのが実情であるため、モロッコ製作作品が少ないと考えられる。

粉打ちの2人、(右)サミア 
(C)Ali n' Productions - Les Films du Nouveau Monde - Art?mis Productions  ※以下同様

赤ん坊を抱かないサミア

心を開くアブラ(左)、求婚者スリマン(右)

台所のワルダ(左)とアブラ(右)

妊婦サミア

パン作りのアブラ

宿無しのサミア

アブラの小さなパン屋

アブラ

1人路地を行くサミア

屋上の物干し場でのサミア

粉を練り、親密度を深める2人

職を求める若い妊婦

 大きなお腹を抱えてカサブランカの街中(まちなか)を歩む若い女性サミア(ニスリン・エラディ、モロッコ人女優)は、ある美容院の前に立つ。就職の交渉だ。
サミアは以前、美容師として働いた経験があり、翌朝に給料の相談の段取りをつけるまでいく。そしてホームレスの彼女は、美容院の中で一夜寝かせてくれと頼むが、相手から断られ、せっかくの就職も破談となる。
お腹には赤ん坊、肩には大きなショルダーバッグの彼女は、お手伝いさんの仕事を打診しながら門を叩く。しかし、身重の妊婦は誰も雇わない。彼女は仕方なく路上で休むことになる。 
  


一夜の宿

 その時、1人の幼女がアパルトマンの窓からサミアに声を掛ける。気の良い幼女は母親アブラ(ルブナ・アザバル、ベルギー・ブラッセル生まれ、モロッコでは中年ベテラン女優のようだ)に「路上の女の人を泊めてあげて」と頼む。
無表情な母親は、他人を泊めるほどの余裕がなく、「ダメ」の返事。しかし、一晩中外にいるサミアの姿を見兼ねて、アブラはつっけんどんな態度で彼女に一夜の寝る場所を提供する。
ホームレス状態でシャワーも浴びていない彼女は、浴室で体を洗い、次いで下着を洗う。生活感がにじみ出る場面だ。無表情を装うアブラだが、若い妊婦のことが、気が気ではない。不器用な人情ばなし的な物語の展開だが、今後の成り行きに期待を持たせる。
これは実際に家庭で妊婦を引き取った、監督自身の体験に基づく脚本で、家族や友人関係に視点を絞り込み、作品に太い芯(しん)を通している。



未婚の母

 
翌朝、その日の寝る場所を心配するサミアは、一夜の宿の礼を言い、「何か手伝う」と申し出るが、アブラはにべなく申し出をはねつける。何か、人を信用しまいとする様子が見て取れる。実際、ほかのイスラム圏でも濃淡はあるが、似たような状態がある。
アラブ社会では婚外交渉と中絶は違法であり、未婚の母はふしだらと見なす習慣が根強く、サミアもその1人。子供の父親には逃げられ、両親からは勘当、世間は「あの子は悪い子」とレッテルを張る。彼女は八方ふさがりの状態で、一夜の宿もままならず、女性にとっては厳しい環境だ。
サミアをそのまま追い出すことができないアブラは、もう数日ここに居てもよいと、ぶっきらぼうに言う。アブラは夫を失くし、幼い娘ワルダを抱える母子家庭。生計のため、自宅で粉を練り、パンや菓子パンを焼き売っている。
旧宗主国でフランス文化が浸透するマグレブ諸国では、多くの人がバゲットを主食としており、アブラ製のパンは、おやつか小腹を満たす間食であろう。



ルジザ作り

 次の朝、サミアは朝食の支度で忙しいアブラに、お礼の代わりに何か手伝うと申し出るが、彼女は硬い表情のまま「もっと居てもいい」と一言。サミアはお礼のつもりで自発的にルジザを作る。
ルジザとは、粉をうどん状にし、巻いてつぶした状態で、オーブンで焼く。手間がかかる一品のため、アブラは中断していたもの。このルジザに幼いワルダは大喜び、残った分を店頭に並べたところ即完売。アブラ・パン店の新しい商品の誕生だ。



アブラの迷い

 物語構成上、定番の設定があり、出会うはずのない2人の人物の接近は、吸引力のある仕掛けで、本作でも試みられている。それが「ルジザ」の登場である。サミアとワルダはこの件でより親密になるが、母親のアブラとしては、このまま、ズルズルと居座られても困るという思いが頭の中をよぎる。
そして、アブラは身重のサミアを追い出す。表向きは不機嫌を装うが、冷酷非情ではない。アブラは幼い娘の哀願もあり、夜遅く市内のにぎやかなバスターミナルまでサミアを探しに行く。サミアは「居てもいいと言ったくせに追い出して」とばかりに、ふくれっ面。アブラは「家で出産を」と強引に彼女を連れ帰る。


ワルダのテープ

 何度も心を結ぶ機会がありながら、2人の踏み込みが足りず、決定打が出ない。この点が、女性監督マリアム・トウザニの腕の見せどころとなる。
偶然、家の中から音楽テープが出てくる。女性歌手ワルダの歌である。アブラの娘ワルダの名前はイスラム圏で有名な女性歌手名であり、夫の生前には彼女の歌を何度も耳にし、娘の名にも付けたほどだ。
アブラの夫は、港湾事故で亡くなった。イスラムの風習に従い、葬儀は男性のみで執り行われ、彼女は夫の最後の見送りも叶わず、無念の思いを抱えねばならない。それ以降、彼女は心を閉ざし、大好きなワルダの歌を封印する。サミアにとり初めて聞くアブラの悲しい物語だ。




イスラム圏の女性問題

 イスラム社会では、妻を4人娶(めと)ることができる。それは大昔、戦争で多くの男性が亡くなったことから、女性救済の手段でもあった。現在は、経済的に一夫多妻制は難しい。しかし、女性差別の最大の問題は女子の教育問題で、これは社会問題化して久しい。
現在でも、女性の婚外交渉は刑事罰の対象であり続ける。男性にはない不合理な法律だ。葬儀も、女性の参列は許されない。まさに、ガチガチの男性社会が根付いている。婚外交渉で生まれた子は、養子に出す逃げ道がある。サミアもこの手を考えている。





サミアの出産

 サミアの陣痛が始まり、出産間近になる。何としても、養子縁組をサミアにはさせまいと、アブラは「養子に出しても、売られてしまう」と必死に説得する。しかし、男の子を出産したサミアは心を鬼にし、自分の子を抱こうとしない。
ベッドに1人寝かされた赤ん坊が火のつくように泣く。仕方なく抱き上げるサミア。当然ながら、わが子を愛おしく思うようになる。その子を抱え、彼女は数日後にアブラ宅を後にする。養子に出すことは断念する余韻を残して。
女性同士の連帯、非合理なイスラム社会の女性政策、この2つを本作はきっちりとらえている。作品自体に心がある。






(文中敬称略)

《了》

8月13日よりTOHOシネマズ シャンテほか全国公開

映像新聞2021年8月23日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家